クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私は律法の下にはいない 私の場合

 牧師になった頃は、夢中で与えられた務めに取り組みました。説教の準備に必死でした。10年も経った頃から心にゆとりができました。すると牧師としてどうあるべきか、ということを考えるようになりました。牧師として何をすべきか、どのような生活を送ればいいのか、牧師として立派に働くにはどうすべきか、考えるようになりました。その結果は、あれをすべき、これをすべき、と重荷を背負うようになりました。十分に果たせない自分を責めることもありました。

 宗教改革者のルターは毎日2時間祈っていたと何かで読みました。韓国の教会を訪問し、あちらの牧師たちの働きを見て、もっと熱心に祈ること、聖霊の導きに生きることなどを学び、勝手にあるべき牧師像を考え、それに向かって努力をしました。でも、~しなければならないという考えで生きることはしんどいものでした。

 ある時、ディボーションという聖書の読み方を学びました。霊的な糧として聖書を読むとき、聖書を思いめぐらし、神の導きを受け取り、それに従う歩みをするという、聖書の読み方でした。

 神さまは私を愛している。神さまは私のすべてをご存じである。神さまは私のために私にとって最善の人生を用意しておられる。その人生を歩むように神さまは私を導いてくださる。だから、聖書から与えれた導きに従って歩めばよい、そのように教えられて私は安らぎと自由を与えられました。ディボーションという聖書の読み方は、それ以来今日に至るまで20年以上続けています。

 律法の下ではなく、恵みの下にいることを私は実感しました。私は「~しなければいけない」世界、つまり律法の下にある世界に別れを告げて、聖霊に導かれて喜んで「~行う」世界、つまり恵みの下にある世界に生きることとなりました。この世界の第一の恵みは、聖霊の導きを信じて聖書を読み、神の導きを得て歩むことができる恵みです。私は重荷から解放されて、神さまの御心に生きることを大切にする歩みを積み重ねて歩んできました。本当に感謝なことです。

 ルターが2時間祈ったということも、聖書を思いめぐらす時間を多くとったのではないかと考えています。

 こうして私は神さまに信頼し、神さまを愛し、神さまの御心に従う歩み、神さまの戒めに従う歩みができるようになりました。

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