十字架
イエスと共に十字架につけられた犯罪人。二人のイエスに対する態度は対照的。
死に至るまで、十字架の死に至るまで、神に従順に生きるイエスを見る。十字架の死に至るまで、そこには人々からの侮辱を受けるという状況もあるのにイエスはなお神に従順に歩まれた。
昨日、県内にある教会で説教奉仕しました。 旧約聖書 イザヤ46:10 新約聖書 マルコ15:33~41 説教 主イエスの愛
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
一昨日の日曜日、教会で聖餐式が行われました。パンとぶどう酒をいただき、主イエスが私の救いのために命を献げてくださったことを思い起こします。そして主イエスが、私を愛し、命を献げてくださったことを覚えます。
御子は人類の罪を背負い、神の裁きを受けました。つまり御子は神に見捨てられました。なぜ、このような歩みを御子はされたのでしょうか。答えはただ一つ。御子も人間を愛し、人間の救いを願ったからです。
十字架の上でのイエスの叫び,「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」を黙想しました。
私は十字架のくしき光の中に自由を見ます。十字架の死を遂げた方こそ、私の主であり、この方は私を自由にしてくださいました。
十字架のくしきひかりを仰ぐとは、十字架の恵みを確認することと言い換えてよいと思います。この確認をしたいと思いました。今回は2回目。
十字架のくしきひかりを見るとはどういうこと?
主イエスはゲッセマネの園で、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と語られました。主は何を悲しまれたのでしょうか。
讃美歌11番 生くるも死ぬるも、ただ主を思う ゆるがぬこころを あたえたまえ
今日の出来事。
イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、神に対して従順に歩まれました。この方が私たちの罪の償いの供え物として十字架で亡くなられました。
十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かうイエス様。どんな気持ちで十字架を背負っていたのでしょうか。
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストを知る素晴らしさとは?
天地の造り主なる神は何を考えて世界を創造されたのでしょうか。思いめぐらしました。第五回目。十字架が視野に入ります
天地の造り主なる神は何を考えて世界を創造されたのでしょうか。思いめぐらしました。第四回目。
天地の造り主なる神は何を考えて世界を創造されたのでしょうか。思いめぐらしました。第三回目。
新しい年の願い。目標となる聖句。
イエス・キリストは十字架の上で、私たちの代わりに神の怒り、神からの罰を受けられたと聖書は語ります。身代わりの思想は適切なのでしょうか。
イエス・キリストは神であるのに人となり、人を救うために十字架で死なれました。神が人となり、人のために死ぬ、こういうことでしょうか
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」。 キリスト者はつまずいていないのか?
讃美歌をもとの英語で味わうことは、詩人の信仰の心に触れることができそうです。