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隠退牧師 holala によるブログ

十字架の主の叫び

 マルコによる福音書でディボーションを続けてきました。ようやく読み終わりました。印象に残るのは十字架の上でのイエスの叫びです。十字架の主イエスは、

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

と叫んで亡くなりました。

 この叫び声は、詩編22編の言葉からの引用と考えられています。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。十字架の上で主イエスは神に見捨てられるという絶望を味わいました。神に見捨てられるというのは絶望の極みです。それは人間が犯す罪に対する神の審きを受けた結果です。罪に対する神の審きを受ける、それは神に見捨てられることでした。

 神に見捨てられる、それは絶望です。神に見捨てられることほど深い絶望はありません。主イエスは、この絶望は予期していなかったと思います。十字架の死を覚悟していましたが、この絶望は予期していませんでした。それで「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。

 絶望するとき、人はささやきかける声を聞きます。「お前の神はどこにいるのか」との声です。「お前は神に見捨てられたと考えているが、そもそも神はいないのだ」。悪魔の声です。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これは詩篇22編の言葉です。詩篇22編は絶望の中で、それでもなお神に信頼する詩編となっています。絶望の叫びと共に神への信頼の言葉があります。

詩編 22:5~6
わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。

詩編 22:11
母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。

 詩編22編の詩人は、絶望的な状況の中で、それでもなお信仰の告白をして、神に信頼しようとします。主イエスの「わが神、わが神」という言葉は、自分の身に何が起ころうと、たとい神に見捨てられたと思ってもなお神に結ばれて生きる人の言葉です。

 私はここに信仰を見ます。信仰は、自分が神と結ばれていることを信じ抜きます。主イエスは、神に見捨てられたと思えるときでさえ、神に向かって叫びます。

 人は自分の死を迎えるとき、どんな思いになるのかと考えます。神の国に迎えられることを信じ、穏やかに死を迎える人もいると思います。しかし神を信じて生きてきたのに神は本当にいるのだろうか、神の国は本当にあるのだろうかという、疑いを持つ人もいるかと思います。悪魔がこの疑いを持ってくるのです。

 でも主イエスは、神に見捨てられてもなお神に向かって叫びます。自分と神との絆を信じ続けるのです。神を信じるとは、自分と神との結びつきを信じることと教えられます。

琵琶湖湖畔