クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

探求

自分の心はどうなっている?

信仰に生きる時、疑いという影がつきまとうものだと考えてきました。でもふと思うのです。なぜ疑う心があるのだろうか。

神の愛を知る(6)キリストの愛の大きさ

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。かみのあいは、之よりもさらに大きい愛であると教えられます。

神の愛を知る(5)十字架の叫びから知る愛

御子は人類の罪を背負い、神の裁きを受けました。つまり御子は神に見捨てられました。なぜ、このような歩みを御子はされたのでしょうか。答えはただ一つ。御子も人間を愛し、人間の救いを願ったからです。

クリスマスに思う(5)神が人となった舞台裏の続き

パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」と書いています。キリストはいつ、「固執しようとは思わ」なかったのでしょうか。

クリスマスに思う(4)神が人となった舞台裏

神は人となられたと言われても戸惑います。聖書の言葉をもとに黙想してみました。

クリスマスに思う(3)神が遣わす救い主

だれが全人類の罪の償いをすることができるでしょうか。現実の人間は、自分自身罪を犯します。全人類の罪の償いをできる人は、全く罪のない人だけです。

クリスマスに思う(2)待ち望まれる救い主

旧約聖書は人間の罪を明らかにします。そして救い主を待望します。

クリスマスに思う(1)救い主の到来

今度の日曜日は教会でクリスマス礼拝が行われます。神さまは救い主をこの世に送り、私たちのために救いの御業を行われました。そもそも神さまは、なぜ救い主をこの世に送られたのでしょうか。

神の愛の深さ

旧約聖書には、神の掟として人が罪を犯した場合、いけにえを献げて神に赦しを求めることが命じられています。これは何を意味しているのでしょうか。

神が用意された道

人は自分の犯した罪に対して自分で償いをすべきだし、身代わりなんておかしいと語る人もいます。でも聖書はなぜ、イエス・キリストが身代わりになったと語るのでしょうか。

身代わりという考えは妥当か?

イエス・キリストは十字架の上で、私たちの代わりに神の怒り、神からの罰を受けられたと聖書は語ります。身代わりの思想は適切なのでしょうか。

クリスマスの恵みを考える(3)

イエス・キリストは神であるのに人となりました。なぜ人となられたのでしょうか。その答えは、人間を愛しておられたからです。

クリスマスの恵みを考える(2)

キリストは神であるのに人となりました。これはどういうことでしょうか。たとえで考えています。

クリスマスの恵みを考える(1)

イエス・キリストは神であるのに人となり、人を救うために十字架で死なれました。神が人となり、人のために死ぬ、こういうことでしょうか

関係性に生きるクリスチャン

人は他者との関わりの中で生きています。キリスト教は他者との関わりを大切にするように教えます。人はだれでも人格を持つものとして尊重されるべきです。

プライドという罪

アダムとエバに現れたプライドという罪。プライドこそ、根本的な罪。

善悪の知識の木

創世記によれば、神は人間を造り、善悪の知識の木の実は食べてはいけない、食べると必ず死んでしまうと警告されました。なぜ?

神に似せて造られた人間

神は御自分に似せて人間を造られました。言い換えると人間は神に愛される存在です。