クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスマスに思う(5)神が人となった舞台裏の続き

パウロはフィリピ信徒への手紙でこう書いています。

フィリピ 2:6~7
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

 キリストはいつ、「固執しようとは思わ」なかったのでしょうか。キリストが人となる前です。つまりキリストは天にあって、御子として、先在のキリストとして御父と共にいた時です。御父から人となるよう提案を受けたと考えてよいと思います。キリストは神であるのに、人となることに抵抗を感じませんでした。神の身分であることにこだわらなかったのです。そしてイエスとして地上にお生まれになりました。

 以前ブログにも書きましたが、もし私が父から、地下にアリの国があり、アリはいま苦しんでおり、アリを助けるために地下のアリの国へ行ってくれないかと頼まれたとしたらどうするか、です。しかもアリになるというのです。さらにアリとして死ぬというのです。私は人であることに固執し、アリになることは断固、拒否します。

 しかしキリストは、御父から人間を救うために人となって欲しいとの提案を受けたとき、受け入れたのです。神の身分を捨てることにこだわらず、人となられました。

フィリピ 2:6~7
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 キリストは人となることを受け入れただけではありません。十字架の死をも受け入れたのです。十字架の死を受け入れるほどに御父に従順なのでした。でもどうしてそんなことができたのでしょうか。人間に対して負い目があるわけでもないのに、どうしてそこまで自分を犠牲にできるのでしょうか。また御父はなぜ御子の犠牲を提案されたのでしょうか。御子はなぜ断らなかったのでしょうか。

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ナンテンの実