クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の愛を思いめぐらす(5)

ローマ 5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 キリストが十字架で死んだこと、そこに神の愛が現れていると聖書は語ります。聖書は、同時にキリストの愛についても語っています。

エフェソ 5:2
キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、・・・

 キリストご自身が、私たちを愛して、御自分をいけにえとして神に献げたとあります。父なる神だけでなく、キリストも私たちを愛していました。そしてパウロは祈ります。

エフェソ 3:18~19
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

 私たちがキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるのか、知るようにと祈っています。このキリストの愛をどうしたら知ることができるのでしょうか。手がかりはフィリピ書にあります。

フィリピ 2:6~8
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 キリストの愛を考えるために、私の想像を話します。神さまが私に言います。「地下にアリの世界がある。アリの世界はひどい世界になっていて、私はこれを救おうと思う。アリの世界に行ってアリたちを救ってくれないか。アリになってアリの世界に行き、罪を悔い改めるように教えるのだ。しかし最後には十字架で死ぬことになる。でもそれはアリたちの救いになるのだ。どうだ、アリになってアリの世界に行ってくれないか」。

 私は断ります。人間である私がアリになる?アリを救うために自分の命を犠牲にする?そんなこと到底できない。できるわけがない。人間としてのプライドがある。アリになり、アリのために死ぬなんて、絶対にできない!

 御子は神であるのに人となられ、十字架で罪のあがないのためにいけにえとなって死なれました。それを自ら選ばれました。そこには人間に対する大きな愛があると理解します。私にはアリを愛する気持ちは全くありません。アリになって死ぬなんて考えられません。

 神であるのに人となることを受け入れた御子には人間への大きな、深い愛があると考えます。しかも御子キリストは、私の心にお住まいくださるのです。これもキリストの愛によることと信じます。

ガラテヤ 2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

 

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