ローマ 5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。ヨハネ一 4:10
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
いずれも神が御子を世に送り、罪を償ういけにえとしたことに神の愛が示されていると聖書は語ります。
旧約聖書には、人が罪を犯したとき、自らいけにえを献げることによって罪の赦しを得ることが書かれています。いけにえは罪を犯した者が献げるものです。それは罪を悔いていることのしるしです。
しかし神が御子を送り、御子をいけにえとするというのは不思議です。赦す立場の神がいけにえを献げるのは理屈に合いません。ではなぜ、神が御子を生けにえとしたのでしょうか。
神は聖なる神であり、人間の罪を見過ごしにして人間を赦すことはできません。愛の神なら、赦しを求める人を無条件で赦すこともできるかもしれませんが、愛の神であると同時に聖なる神は、罪を見過ごしにできません。そして罪を犯す人間は、自分の罪を償うことはできません。そこで神は御子を送り、御子を罪を償ういけにえとしたというのです。御子がいけにえとなり、人は罪の赦しを受けることができるというのです。
罪を赦す側の神がいけにえを献げ、御子の死が自分の罪のためのいけにえであると信じる人が赦しを受けるのは、理屈に合いませんが、神はこのやり方を選びました。それは人間に対する神の愛だと聖書に書かれています。
まず神は人間をご自身に似せて造られました。人が神との交わりに生きるためです。神は人間を交わりの相手として選ばれました。罪を犯した人間に対して神はどのような態度をとるのでしょうか。
罪を犯す人間なんか見捨てる、見放すということを神はしてもいいのですが、しません。神はあくまでも人間が神との交わりを持って生きるのを願うのです。ここに神の愛を見ることができます。
人間の世界なら、親に反抗を続ける子に対して、親の側から親子の縁を切るということが行われることがあります。勘当です。しかし神は罪を犯す人間を見捨てない、見放さないのです。縁を切ることをしないのです。
神は御子を信じる者と和解します。神は人間の罪を赦すだけではなく和解し、あなたの神となると言ってくださるわけです。絶対に人間を見捨てない神の愛が示されています。
神がどれほどの愛で人間を愛しているのかと問うなら、それは人間を絶対に見捨てないほどの愛であり、さらに言えば、罪を犯す人間を、言い換えると神の子と呼ばれる資格のない者をなお神の子と受け入れてくださるほどの愛だと聖書は教えているように思います。
キリスト者は罪を犯します。でも神はイエス・キリストを信じた者を絶対に見捨てず、神の子として愛し続けてくださいます。主イエスの語られた放蕩息子の物語に登場する父は、この神の愛を体現しています。