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隠退牧師 holala によるブログ

説教 何を大切にして生きるか

今週10月8日、伝道礼拝に招かれ、説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
音声サイトへ行くには ここをクリック
聞いていただけるとうれしいです。
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聖書 創世記3章1~13節
   マタイ福音書 5章9節
説教 何を大切にして生きるか
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→皆さんは、私たちが生きているこの世界、この社会をどう思われるでしょうか。
人類の歴史の中で科学技術が発展した素晴らしい世界、素晴らしい社会と思われるでしょうか。
この世界の現実、この社会の現状をどう評価するかは人によって違うと思います。
私は今の世界、この社会を肯定的に評価することはできません。

→聖書には十戒という神の戒めが書かれています。
10の戒めがまとめられて十戒と呼ばれていて、
聖書の中で有名な教えです。大切な戒めです。
自分と神との関係における戒めと
自分と他者との関係における戒めがあります。
人間関係に関する戒めには次のものがあります。

→「殺してはならない。」「姦淫してはならない。」
「盗んではならない」「隣人に関して偽証してはならない」。
「隣人の家を欲してはならない」。
短く言えば、「殺すな」「盗むな」「嘘つくな」
「姦淫するな」「貪るな」です。
これらは人間が平和な生活をするために必要な教えです。

→この十戒に照らしてこの世界を見るとどうなるでしょうか。
人間は戦争を起こし、殺し合っています。
殺人事件も頻繁に発生しています。
「盗んではならない」。
現代日本では、闇バイトという言葉があるように、
強盗、窃盗という犯罪が日常化しています。
あるいは企業による脱税なども行われています。
「姦淫をしてはならない」「嘘をついてはならない」
「貪ってはならない」。
これらも守られていません。

→ある人たちはこの世界を見て、
人間の世界なんてこんなもの、と言うかも知れません。
いつの時代だって、同じだというかもしれません。
どうしてこのような世界、社会になったのかと私は考えます。
そして、その答えを聖書に見つけることができると考えます。

→聖書の最初に創世記があります。
創世記には神がこの世界を造られたこと、
そして人間を造られたことが書かれています。
聖書は科学の本ではありません。
世界がどのようにしてできたのか、
人間がどのようにこの世界に登場するようになったのかを語る本ではありません。
聖書は、神のご意志によって世界が存在し、
神のご意志によって人間が存在していることを告げます。
私たち一人ひとりは偶像に存在するのではなく、
神の御心によって命を与えられ存在していると聖書は告げます。

→神は、御自分に似せて人間を造られたとあります。
そして最初にアダムとエバ、という一組の男女が造られました。
彼らはエデンの園と呼ばれるところで生活します。
神は彼らに「園のすべての木から取って食べなさい」と言います。
エデンの園では、食物を得るための労苦をする必要がないことを知ります。
神はもう一言付け加えます。
「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
食べると必ず死んでしまう」と警告しました。

→善悪の知識の木の実を食べ、善悪の知識を得るなら
食べた方がよいのではないか、人は思うかもしれません。
でも神は食べてはいけないと禁じました。
なぜ食べてはいけないと言われたのでしょうか。

→世の多くの人は、自分は善悪を知っていると考えています。
それゆえ基本的に自分は正しいと考えています。
たとえば夫婦喧嘩が起きる時、夫婦のどちらも自分の主張は正しいとし、
争い、喧嘩となります。
あらゆる争いは、自分は正しいと思う者同士の争いです。
争いに勝ち、自分は正しいと人は主張したいのです。
争いは国家レベルで戦争として起きることがあります。
戦う者は、自分こそ正しいと主張し相手を非難します。

→神が、善悪の知識の木から取って食べてはいけないと警告されたことは、
自分は絶対に正しい、と傲慢になることを戒める命令です。
さらに言えば、神こそ正しい方であることを教えています。

→エデンの園に蛇が登場します。
蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。
女は答えます。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」。
すると蛇が言います。
「決して死ぬことはない。
それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。
この言葉には、悪意を感じることができます。
この木から食べると、あなたは神のように善悪を知る者となる。
そのことを神は知っている。
つまり神は、あなたに神のように賢くなって欲しくないのだ、と言っているかのようです。

→女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

→このようにしてアダムと女は、
神が取って食べるなと言われた木から取って食べてしまいました。
その結果、彼らは自分が裸であることに気づき、
いちじくの木をつづり合わせ、腰を覆うものとしました。

→その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきました。
アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
主なる神はアダムを呼ばれました。「どこにいるのか」。
そして神は、なぜ、取って食べてはいけないと警告したのに取って食べたのか理由を問います。
アダムは答えます。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、
木から取って与えたので、食べました」。
女は答えます。「蛇がだましたので、食べてしまいました」。
つまり二人とも責任転嫁、つまり人のせいにしました。
自分が神の警告に背いたことを認めることはしませんでした。

→この小さな物語は、大切なことを私たちに教えてくれます。
まず第一に、彼らは神の戒めに背きました。
聖書はこれを罪と呼びます。
神の戒めに背くことを罪と聖書は言います。
第二に、罪を犯すことは、戒めを与えた神を軽んじることを意味します。
神の戒めを尊重するより、自分がしたいと思うことを優先したのです。
第三に、なぜ食べたのかと神に問われたとき、自分の間違いを認めず、人のせいにし、
あくまでも自分は正しいという立場を崩しませんでした。
自分が過ちをしたことを認めませんでした。

→ここには、自分を正しいと主張する人間がいます。
自分が間違ったことをしても、人のせいにする自分勝手な、自分中心の人間がいます。
神の警告を軽んじ、自分の思いを優先する生意気な人間、高慢な人間がいます。
エデンの園における出来事を語る小さな物語は、
人間はいかなるものであるかを語る物語です。

→そしてこの世界、この社会では、十戒が踏みにじられる社会です。
人間は、神の戒めに背いて生きています。
しかし、十戒を破る人は一部の人であり、
自分は違うと人は言うかもしれません。
私は人を殺していません。姦淫もしていません。
盗みもしてません、と人は言い、
自分は間違ったことをしていないと言うかもしれません。

→しかし主イエスは言うのです。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

→人は殺していなくても、兄弟に腹を立てる者は裁きを受け、また兄弟をバカという人は火の地獄に投げ込まれるとイエスは教えます。
人を殺すなと言う戒めは、深い内容があります。
この教えの本質は、他者を尊ぶということです。これが神の御心です。
だからイエスは、兄弟に対して怒り、また愚か者と軽蔑することは、
人を殺すに等しいと教えておられます。
殺人は他者の命を奪う行為、他者の存在を否定するような行為です。
文字通り人を殺さなくても、
他者を尊ばない行為をしない人はいないと思います。

→またイエスはこう教えます。
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

→行為に及ばなくても、心の中で思ったなら、それは戒めを破ったに等しいというのです。こういう考え方は厳しいかもしれません。
みだらな思いで人を見ることは、相手の人格を軽んじることです。
人間の心が問題なのです。

→人が自分中心に物事を考えること、
利己的つまりいつも自分が得することを求めること、
自分を常に正しい立場に置き、批判されることを嫌い、
時には人のせいにし、自分の正しさを主張する者であること。
自分の間違いを決して認めず
自分の正しさを主張して争うこと。
自分は正しいというプライドを人は持つこと。
さらに神を信じていても、自分を神より上に置き、
神の教えはむずかしい、無理、と言って
神の教えを拒むこと。
つまり自分を偉そうに見せる人間の高慢。
これらは人間の現実の姿です。

→自分中心の心、利己的な心、つまり自分が得することを考える心が私たちにもあります。
私たちの生活の中で、争いや対立が起きます。
夫婦喧嘩、親子喧嘩。友だちとの喧嘩が私たちの生活で起きます。

→喧嘩、争いは国家レベルにまで及びます。
この世界、この社会を構成する人間が
自分中心、利己的つまり自分が得することを第一にするなら、
このような人間がつくる世界が、
十戒を守らない混乱した世界になることは必然、つまり当たり前です。
現代の世界、この社会が争いに満ち、
人の命が軽んじられ、ひとりの人間の人格が軽んじられるのは、
人間が自己中心的であり利己的であるからと聖書は告げます。

→現実の世界で争いがなくならないのは、人間の持つ自己中心、利己心の故です。
このような世界、社会にあって、私たちが身近な他の人を大切にすることは
とても大事なことだと考えます。
他の人の心を大切にすることは家庭で、学校で教えられています。
でもそれが実行できないのは、自分中心の心、利己心つまり自分が得することを考える心が
人間にこびりついて、はがすことはむずかしいからです。
人間の努力ではがすことはできないと聖書は告げます。
自己中心的に振る舞うこと、利己的に振る舞うことは
神の戒めに背くことになり、それは罪だと聖書は告げます。
人は自分の力で罪を克服することはできないと聖書は語ります。
聖書は、人は罪の奴隷であるとさえ語ります。

→そこで救い主イエス・キリストの登場です。
イエス・キリストは神を愛し、人を愛することを教えられました。
イエス・キリストは神の心を大切にし、人の心を大切にすることを教えられました。
またイエス・キリストは私たちを、神を信じる信仰へ導いてくださいます。
そして私たちに神の御心を大切にする信仰を与えてくださいます。
神を愛し、神の御心を大切にしない人は、
自分以外の人を大切にすることはできないと教えられます。
まったくできないということではなく、
ここぞという時に、できないということです。
つまりここぞという時、自分中心になるのです。
しかし私たちは神の助けにより、他の人、自分以外の人を大切にすることができるようになります。
本当ですよ。
私たちは神の助けにより、他の人を大切にすることが喜びとなります。
本当ですよ。
私たちは神の助けにより、こうして私たちは周りの人との間に平和を実現することができるようになります。
本当ですよ。
平和を実現する人々は幸いです、とイエス・キリストは教えてくださいました。
神の助けにより、周りの人を大切にして生きる、これはとても大切なことだと考えます。

→私たち一人ひとりの小さな罪、
自分以外の人を大切にしない罪が、
この世界の混乱を生み出しています。
神さまは、一人ひとりが悔い改めて、神さまに立ち返り、
周囲の人を大切にする歩みをすることを求めておられます。
世界は一挙に変えることはできません。
しかし世界を変えるのは私たちからです。

→神さまの心、私たちの周りにいる人たちの心を大切にすべきことをお話ししました。
同時に、私たちは大切にできない私たちであることもお話ししました。

祈ります。