クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の愛を知る(18)神との交わりへの招き

 神はイエス・キリストにより私たちを罪から救ってくださいます。私たちの罪を赦すだけではなく、私たちを罪の支配から自由にさせ、神の御心に生きるように導いてくださいます。それと共に神は私たちを義とし、私たちと和解してくださいます。神は、私たちをどこに導こうとされるのでしょうか。

 聖書を読むと、神を信じて生きるとは神との交わりに生きることであると教えられます。イスラエルの民は、エジプトにおける奴隷状態から救われるとシナイ山の麓で神と契約を結び、神の民として生きることとなりました。神は彼らの神となると約束されました。

 聖書における信仰の特徴は、神との関わりに生きること、神との交わりに生きることにあります。

 私は今奈良に住んでいます。沢山の人が神社仏閣を訪ね、参拝し祈っています。この場合、祈る相手の神あるいは仏がどのような方なのか、それは関係ありません。自分の願いを聞き届けてくれればそれでいいのです。そこには祈る相手との交わりはありません。神、あるいは仏とは、自分の願いを聞いてくれるだけの存在です。

 時に、神の教え、仏の教えを守るという信者の務めはあるかもしれませんが、それは教えを守りよい信者となり、より大きな祝福を受けることが期待されます。しかしそこには、神あるいは仏との交わりはありません。偶像とは、結局自分の願いを聞いてくれる神のことです。

 私たちもうっかりすると、神とは願いごとを聞いてくれる存在とする信仰に陥るかもしれません。

 聖書の神は、私たちを交わりへと招く神です。私たちを愛し、私たちもまた神を愛して生きるように願う神です。神との交わりに生きるところに人間の幸いがあります。

 私たちは地上の生涯を神と関わりながら生きていきます。それはちょうど結婚した人が、夫婦としての交わりを持ちながら人生を生きていくのと似ています。

 そう考えるとき、罪に対する理解が深められます。つまり神との交わりに生きようとしないことが罪となります。不道徳なことはある意味でささいな罪です。大きな罪は、神と向き合って生きないことです。神の御心を考えず、自分の思いによって生きようとすることが罪であることが分かります。どんなに神の戒めを守っても、神の御心に関心を向けなければ、それは神をないがしろにする罪となります。

 神は私たちを交わりへと導いてくださいます。神との交わりに招かれて生きる時、私たちは家族、隣人との交わりを大切にする信仰者に変えられていきます。他者の心を大切にする者へと変えられていきます。私たちは人を愛し、平和を作り出す者へと変えられていきます。

 神は、私たちを愛し、真の幸いへと導いてくださる方です。

ヨハネ一 1:3
わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

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