愛
人間にとって救いとは、神を愛する人間となり、自分を愛するように隣人を愛する人間となることです。
いつの頃かはっきりしませんが、信仰とは神との交わりに生きることであるという確信が私の心の中に芽生え、根付きました。・・・
昨日、県内にある教会で説教奉仕しました。 旧約聖書 イザヤ46:10 新約聖書 マルコ15:33~41 説教 主イエスの愛
神である方が人となり、この世に生まれメシア(救い主)としての働きをします。しかし人々はこの人を信じるどころか死刑宣告をします。死刑宣告を受けたイエスを人々は愚弄します。
キリスト者の実際の生活を考える時、身近な家族こそ、第一の隣人ではないでしょうか。身近な家族だからこそ、自分を愛するように愛することが大切です。
聖霊の助けを与えられて神の御心を大切にしていくとき、キリスト者は神の御心に従おうとの意志が強められます。
愛するとはどういうことなのでしょうか。愛するとは、基本的に相手の存在、相手の人格を大切にして、相手と関わることと私は考えています。
神の戒めで一番大切な戒めは、神を愛することです。神を愛するってどういうこと?神を愛するとき、どんな感情を抱くのか、昔考えたことがあります。
聖霊の働きが、神を愛する心をキリスト者のうちに創り出すのです。キリストによる救いの恵みです。
人は他者との関わりの中で生きています。キリスト教は他者との関わりを大切にするように教えます。人はだれでも人格を持つものとして尊重されるべきです。
神は御自分に似せて人間を造られました。言い換えると人間は神に愛される存在です。
信仰者になって愛を知り、神さまの助けにより人を愛する人間に変えられて生きてきました。
コリント教会を愛するパウロの愛に驚きます。パウロの愛に神の愛を感じます。
神を愛すること、私の一番の願いです。どうしたらいいのか、課題です。
パウロは自分がキリストの使徒であることを推せんする推薦人はコリント教会だと語ります。ここにパウロの愛を見る思いがします。
パウロの手紙を読み、パウロが神の愛に生きていることを教えられました。心が震えました。
「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」と聖書にあるので、私より妻が優れている点を列挙してみました。
愛は自慢せず、高ぶらない。コリント書の言葉を思いめぐらしました。
愛はねたまない。なぜねたんではいけないのか。でもねたみの感情は湧いてきます。
人が「私は生かされている」と語るのを聞きます。でも神を信じる私は、生かされているという思いはありません。神を信じているのに。
愛とは何かを語る時、パウロは最初に「愛は忍耐強い」と語ります。なぜ一番最初に「愛は忍耐強い」と言ったのか、疑問が湧きました。
神を愛するようになった一つのきっかけ。信仰とは神との交わりに生きることと悟ったこと。