今、コリントの信徒への手紙一を読んでデボーションをしています。13章に至りました。「愛は忍耐強い」、これは13章の「愛の賛歌」と呼ばれる箇所に書かれている言葉です。パウロは愛とは何かを語る時、一番最初に「愛は忍耐強い」と語ります。「愛するってどうすることですか」と質問されたら私たちはどう答えるでしょうか。「忍耐強いこと」と答える人は少ないと思います。しかしパウロはこれを最初に掲げたのです。なぜなのかと思います。
愛するとは何か。私たちはこれをどこから知るのでしょうか。辞書を調べれば説明が書かれています。また私たちの経験から説明できるかもしれません。しかしパウロが「愛は忍耐強い」と語る時、それは神さまを見て語ったのではないかと思います。
「神は愛なり」と言います。私たちは愛を神さまから知るのだと思います。愛するとは何か、神さまから知るのです。パウロはそのようにして愛は忍耐強いと知ったのではないかと推測します。パウロは聖書(旧約聖書)から学んだと思います。
神さまはモーセに対してご自身を啓示されました。
出エジプト記34:6
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」。
ここには明らかに、神さまは忍耐強いとあります。神さまは何に対して忍耐強いのでしょうか。それはもちろん人間に対してです。神さまの忍耐で私が思い出すのは、荒野を旅するイスラエルに対するものです。モーセは偵察隊を派遣して約束の地を探らせました。そこは良い土地ですが、強い民もいました。そこで民は泣き、文句を言いました。荒野の旅の中で、何回も困難な時があると必ず神が助けたことを忘れ、神さまに信頼しなかったのです。神さまの堪忍袋の緒はついに切れました。民の不信仰にお怒りになり、「わたしは疫病で彼らを撃ち、彼らを捨てる」と言いました。その時モーセは執り成しをします。モーセは神に向かって
「あなたは忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方」(民数記14章)
と語ります。
もう一つ思い出すものもイスラエルの民の不信仰です。ネヘミヤ記でネヘミヤは神さまの忍耐を語っています。背信を続けるイスラエルの民に対して、神さまは預言者を送り続け、民が神に立ち帰るのを忍耐強く待ち続けました。しかし立ち帰らなかったのでイスラエルは外国の手に落ちました。
ネヘミヤ 9:30
長い年月、あなたは忍耐し/あなたの霊を送り/預言者によって勧められたが/彼らは耳を貸さなかったので/諸国の民の手に彼らを渡された。
次は新約聖書です。
ペトロの手紙二 3:9
ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
これは終末の到来が遅いと考えている人たちに対する言葉です。終末がまだ来ないのは、神さまが人々が悔い改めるのを忍耐をもって待っているからだと語ります。
以上のような聖書を読むと、神さまの愛の第一を「忍耐」と考えることができます。だからパウロは「愛は忍耐強い」と書いたのではないかと推測します。私たちは神さまの忍耐強さの中で支えられているとあらためて知らされます。