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隠退牧師 holala によるブログ

説教 神の約束に生きる

 昨日は久しぶりに礼拝説教の奉仕を行いました。音声で聞きたい方は「ここをクリック」をクリックしてください。

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旧約聖書 創世記12章1~4節
新約聖書 テモテ二 4章6~8節
説教 神の約束に生きる

→私は引退牧師の堀江明夫と申します。
今日は、「神の約束に生きる」と題して説教をいたします。
私たちの信仰は、神の約束を信じるという特徴があります。
たとえば、

ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。

→ここには神の独り子を信じる人は滅びることなく、
永遠の命を得るとの
神さまの約束があると考えることができます。
聖書には神さまの約束が沢山あります。
信仰とは神さまの約束に生きることであることを
今日はお伝えしたいと願っています。

   ☆

→最初に取り上げるのは、アブラハムです。
創世記12章に登場する時は、アブラムとなっています。
彼は後に神さまからアブラハムと名乗るように言われます。
アブラハムはある時、神から呼びかけられます。 

創世記12:1~2
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。

→ここには神さまの命令と約束が書かれています。
「わたしが示す地に行きなさい」。これが命令です。
 「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める」。
これは約束です。
この時、アブラハムは75歳。妻のサラとの間には子はいません。
アブラハムはこの神さまの約束を信じて、神さまの言葉に従い、
行く先が分からないまま、住み慣れた地を出発しました。

→考えれば分かることですが、
アブラハムが大いなる国民になるのは、彼が死んだ後です。
彼の孫のヤコブがエジプトに移住したとき、
ヤコブの家族は70人だったと聖書に書かれています。
アブラハムは、
自分が生きている間には実現しない約束を信じました。
その約束の実現を信じ、歩み出しました。
自分が生きている間には実現しない約束を信じる、どう思いますか。

→数年が経ちましたが、子は授かりません。
アブラハムの心に戸惑い、
あるいは疑いの心が芽生えそうになったとき、
再び神さまが呼びかけました。

「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。
あなたの子孫はこのようになる」。

→その時、アブラハムは主を信じたと聖書に書かれています。
主を信じた、つまり神の約束を今一度、信じたということです。
そして神の約束を信じたアブラハムについて、
神さまは、彼を義と認めたとあります。
神の前に正しい人間とは、神さまの約束を信じる人、
神さまの言葉に信頼する人であることが分かります。
神さまの目に正しい人は、行いが立派な人ではなく、
神さまの言葉を信じ、
神さまの言葉に従う人であることが分かります。

→ところが子供が授からないまま、アブラハムは99歳になりました。
最初に神さまに呼びかけられてから24年が経ちました。
神さまは再びアブラハムに呼びかけます。
「私は全能の神である」。
さらに「あなたの妻サラによって男の子を与えよう」と。
しかしアブラハムはひそかに笑いました。
信じなかったのです。
99歳の老人に子が授かるなんてあり得ない。
しかし、彼が100歳になり、子が授かりました。
彼は全能の神さまに畏れを覚えたと思います。
子が授かり、神さまの約束は実現に向けて動き出しました。

→心に留めてほしいことが二つあります。
アブラハムは神さまの約束を信じる歩みをしたことです。
途中でふと本当かな、と迷ったこともありますが、
神さまの約束を頼みとし、信じたことが第一。
神さまの約束を信じるアブラハムを神は義としました。
神さまの前に正しい人は、神の言葉を信じ、信頼する人です。
これが第二です。
     ☆
→次に登場するのは、モーセに率いられたイスラエルの民です。
アブラハムの孫のヤコブがエジプトに移住し、時が過ぎました。
ヤコブの子孫、イスラエルの民は
おびただしく数を増した、と出エジプト記の最初に書かれています。
脅威を覚えたエジプト王は、イスラエルの民を奴隷にしました。
イスラエルの民は奴隷生活がとてもつらく苦しく、
神に助けを求めて叫びました。

→神はモーセをイスラエルの民の指導者として選び、
約束を与えました。

出エジプト 3:7~8
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る」。

→ここには二つの約束があります。
第一は、神さまはイスラエルの民を奴隷状態から解放するとの約束。第二は広々とした素晴らしい土地、
自由に生きることのできる土地へ導くとの約束です。

→そして神さまはエジプトにおいて、色々な不思議な業、奇跡を行い、イスラエルの民をエジプト王の支配から救い出しました。
第一の約束は実現しました。
そして神はイスラエルの民を約束の地へと導きます。
ただし約束の地まで、荒野を歩く旅となります。

→その旅の途上で、困難が生じます。
最初はエジプト軍がイスラエルの民を
連れ戻そうと追いかけてきます。
あるいは食べる物がなくなり、飲み水がなくなったりします。
イスラエルの民は、困難に直面すると不平を言い出します。
エジプトにいたときの方がよかったなどと言い出す始末です。
しかし神さまは、困難が起きる都度、不思議な力で彼らを助けます。

→そしてついに、約束の地を前にするところまで来ました。
モーセは偵察隊を遣わし、
これから向かう土地がどんな土地か、調べさせました。
偵察隊が戻ってきて報告します。
そこは広々として素晴らしい土地で、
実りが豊かな土地だと報告します。
しかし強そうな人たちがいると報告します。
すると民は恐れを覚え、また文句を言います。
ここで私たちを死なすために
エジプトから私たちを連れ出したのか、と。
神さまに信頼して約束の地に入ろうと言った人はわずかでした。

→神さまは約束しました。エジプトの奴隷状態から解放すると。
そして自由に生きることができる土地へ導くと。
神さまは大いなる奇跡を行い、彼らをエジプトから救い出しました。
また約束の地を目指す旅において、
困難が起きるつど神さまは不思議な業を行い
イスラエルの民を助けました。
そしてついに約束の地を前にするところまで来ました。
それなのにイスラエルの民は、神さまの約束の実現を期待し、
神さまの力に期待することを全くしませんでした。
この時も、不平を言い、エジプトに戻ろうと言いました。

→ついに神さまの堪忍袋の緒がきれて
イスラエルの民はなんと頑なな民なのか、とお怒りになりました。
神さまは、その後40年間、イスラエルの民を荒野で生活させました。
40年後、文句を言った世代が死に絶えた後、
その子供の世代が、約束の地に入りました。
40年前、約束の地に入ろうと声を上げた人たちは、約束の地に入りました。
そして神さまの約束は実現しました。
信仰に立つとは、神の約束を信じること、
困難に直面したときは、神の約束の実現を願い、
行動を選択することと教えられます。

→私たちは知ります。神さまは約束を果たされました。
しかし、イスラエルの民は
神さまの約束を信じようとはしませんでした。
つまり彼らは不信仰に陥ったのです。
     ☆
→今度は私たちの番です。
テモテ第二の手紙を読んでいただきました。
ここには死を間近にした使徒パウロの言葉があります。
彼は自分が世を去る日の近いことを知っています。
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、
信仰を守り抜きました」と語ります。
キリストを宣べ伝える働きを全うしたと語ります。
パウロの歩みには困難がたくさん伴いました。
でも彼は忍耐強く、神に信頼し、その務めを果たしました。
そして語ります。
「今や、義の栄冠を受けるばかりです。
正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」。
パウロは、自分は義の栄冠を受けるばかりだと語ります。
私たちは、パウロの働きを知っていますから、
パウロがそう語ることに疑問を持ちません。

→パウロはさらに語ります。

「しかし、わたしだけでなく、
主が来られるのをひたすら待ち望む人には、
だれにでも授けてくださいます」。

→主が来られるのをひたすら待ち望む人は、
義の栄冠を授けられる、
との神さまの約束をパウロは語ります。
これは誰に対する約束でしょうか。
これは私たちに与えられた約束です。
私たちが、主が来られるのをひたすら待ち望むなら、
義の栄冠を授けられて
神の御国に迎えられるとの約束です。

→キリスト者は、この世を去った後、
天国に行ける、
神の国に迎えられる、という漠然とした希望に生きるのではなく、
義の栄冠を受けるという明確な希望に生きることが許されています。
それでは、主が来られるのをひたすら待ち望むとは
どういうことでしょうか。
主とはイエス・キリストのことです。

→4章の1節を見てください。
これはパウロが弟子のテモテに書いているものです。

「神の御前で、そして、生きている者と
死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、
その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。
御言葉を宣べ伝えなさい。
折が良くても悪くても励みなさい」。

主が来られるのは、生きている者と死んだ者を裁くためとあります。
ですから、主が来られるのを待ち望むとは、
主の裁きを待ち望むということです。
最後の審判と呼ばれる裁きを待ち望むというのです。
なぜ待ち望むのでしょうか。
この審判で、私たちの最終的な救いが決定するからです。
この世の人たちは、死んだら天国に行けると
漠然と信じているようです。
しかし聖書は、最後の審判が待っていると告げます。
こんな言葉があります。

コリント二 5:10
わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

→人は皆、神さまの前に出て裁きを受けると聖書は告げます。
さらに神さまの前に罪を咎められることのない人は一人もいません。
だれもが神の怒りを受け、滅びに入れられます。
しかし神さまは世界を造ったときから、
救い主を送ることを計画されていました。
神さまはイエス・キリストを救い主として送り、
彼を信じる人を義とすると約束されました。
義とする、つまり正しい者とする、ということです。
キリスト者は、イエス・キリスト信じ、
義とされるとの約束を受けて信仰の生涯を送ります。
そして主がおいでになり、裁きが行われます。
義とされた私たちは救いに入れられ、神の国に迎えられます。
私たちの救いが決定し、神の国に迎えられます。
だから私たちは裁きの日を待ち望みます。
そして私たちは神さまと共に永遠を生きるわけです。

→主が来られるのをひたすら待ち望む人は、
最後の審判だけを待ち望むのではありません。
さらにもっとよいことを待ち望みます。
聖書にこう書かれています。

フィリピ 3:20~21
しかし、わたしたちの本国は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、
わたしたちは待っています。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、
わたしたちの卑しい体を、
御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

→私たちが神の国に迎えられるときに何かが起きるのです。
何が起きるのでしょうか。
キリストが「わたしたちの卑しい体を、
御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」とあります。
私たちの卑しい体とは、罪を犯して生きるからだ、
つまり罪を犯す私のことです。
その私は、キリストの栄光あるからだと同じかたちにされ、
神の国にふさわしい者にされるというのです。

→このような聖句もあります。

コリント一 1:7~8
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。

→この聖句では、主イエス・キリストが現れた時に、私たちは非のうちどころのない者にされるとあります。
私たちは非のうちどころのない者にされ、
神の国に迎えられるというのです。

→主が来られるのをひたすら待ち望む人は、
神の国にふさわしい人にされることを待ち望む人です。
キリスト者は神の国を約束の地としてこれを目指し、
この地上の旅を送ります。
私たちの生活にも色々なことが起きます。
そこで私たちは、神の国にふさわしい者となることを願い、
決断し、生きていきます。
そんな私たちのために神さまは御言葉を与えてくださいます。
礼拝で説教を聞き、日々の生活の中で聖書を読み
神さまのみ心を知って私たちは歩みます。

→そして主が来られる時に、
私たちは完全に非のうちどころのない者に変えられ、
義の栄冠をいただいて神の国に迎えられます。
神さまは義の冠を授けると約束されました。
この約束は、私たちが生きている間には実現しません。
しかしキリストが来られるときに実現します。
最後の審判で私たちが神さまの前で義と認められる場面、
私たちが非のうちどころのないもの、
キリストの体と同じ形に変えられる場面を想像して下さい。
何という楽しみ、何という栄光がキリスト者を待ち受けていることでしょうか。
祈ります。

祈り

あなたの約束を信じる者へと導いてください。
主が来られるのをひたすら待ち望む人には、
だれにも義の栄冠が授けられるとの約束を信じます。
この祝福を目指して生きる者となります。
導いてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。