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隠退牧師 holala によるブログ

狭い門から入りなさい(2)

 昨日「キリスト者はイエス様を信じているから救われるはず」と書きました。これはあいまいな表現だと気づきました。「キリスト者はイエス様を信じているので救われるという約束を神さまからいただいている」というのが正確な表現でした。

 キリスト者はイエス・キリストへの信仰のゆえに、救いの約束を神さまからいただいており、この約束の実現を信じて信仰者としての歩みをします。そして神さまは約束に対して真実な方なので私たちは約束を頼みとして生きていくことができます。
 神さまから約束をいただく時、注意をしなければならないことがあります。それはアブラハムの物語が教えてくれます。アブラハムはある時神さまの声を聞きました。

創世記 12:1~2
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」。

 ここにはアブラハムに対する神さまの約束があります。神さまは「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と約束されました。そして「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」とお命じになりました。アブラハムが神さまの命令に従い、神さまが示す地に行く時、神さまの約束が実現すると考えることができます。もしアブラハムが、「いやです。私はこの地を離れません」と言ったらどうでしょうか。おそらく神さまの約束は実現しないと思います。

 神さまの約束に神さまの命令が伴う時、その約束は、私たちが神さまの命令に従う時に実現すると考えることができます。

 さらに神さまがモーセに約束したことがあります。イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しい生活をし、彼らは神に助けを求めて叫びました。その時神さまは、モーセに声をかけたのです。

出エジプト記 3:7~8
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」。

 神さまはモーセにイスラエルの民を奴隷状態から救い出すと約束されました。神さまはモーセにさらに語ります。

3:10
今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。

 これはモーセに対する命令です。神さまはモーセを用いてイスラエルの民を救おうとされました。イスラエルの救いが実現するには、ファラオのもとに遣わすという神さまの命令にモーセが従う必要があります。しかしモーセは尻込みをします。

3:11
モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」。

3:12
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 この神の約束を受けてモーセはエジプト王ファラオのもとに行きます。神の約束の実現を信じ、彼は神の命令に従います。

 聖書のこのような記述を読む時、イエス・キリストを信じる人は義とされる、永遠の命を与えられる、救われる、というのは神さまの約束であることが分かります。それならその約束の実現のために神さまは私たちにどんな命令を与えられるのでしょうか。聖書には、直接的には書かれていません。

 すると「信じなさい、そうすれば救われる」で、信じればよいということになります。でも信じるとはどういうことでしょうか。救いの約束を信じ続ければそれでいいのでしょうか。聖書の論理は、上に述べたように、約束に伴う命令に従うことが必要だということだと思います。

 新約聖書には、キリスト者としてどのように生きたらよいのかがいろいろ書かれています。ですから「キリスト者としてそれらの教えに従う」、これが救いの約束に伴う神さまの命令と考えることができます。イエス様のこの山上の説教で言えば、「狭い門から入りなさい」ということです。

 命を得る、それが神さまの約束。狭い門から入りなさい、それが神さまの命令。すると私たちは自分の行いによって救われることになるのでしょうか。どうなのでしょう。

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