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隠退牧師 holala によるブログ

狭い門から入りなさい

 私は毎日聖書を読み思いめぐらす習慣を持っています。今マタイ福音書の山上の説教とコリントの信徒への手紙一を読んでいます。先日読んだ山上の説教は「狭い門から入りなさい」で始まる箇所です。

マタイ 7:13~14
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」。

  狭い門から入るとはどういうことだろうと考えます。牧師だからといって、聖書のこの箇所の意味はこうです、と説明できるわけではありません。また説明できればそれでいいというものでもありません。なぜなら、キリスト者は聖書の言葉を生きることが大切だからです。そして聖書の箇所が何を語っているのか分かった風な顔をするのは傲慢だと思っています。いつも白紙で聖書の言葉に向き合う、それがわたしの聖書の読み方です。

 この山上の説教はイエス様が弟子たちに向けて語られた教えです。つまりキリスト者に向けて語られた教えです。ですから、信仰に生きることが狭い門から入ることで、信仰を持たない人が広い門から入ることと理解することはできません。イエス様はキリスト者に向けて狭い門から入りなさいと告げ、広い門から入ることのないようにと注意していると理解します。

 キリスト者はイエス様を信じているから救われるはず、広い門から入って滅びるのはキリスト者ではない、という解釈もあるかと思います。でも私は、広い門から入って滅びにいたる信仰者もいると考えます。つまり名前だけの信仰者は信仰を持たないに等しいと理解するからです。信仰を得たのなら、キリスト者としてふさわしい歩みをしたいと思います。

 狭い門から入るとは、山上の説教で教えられたことを生きることだといってよいと思います。いくつかこれまで語られた山上の説教を紹介します。

5:16
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

5:44
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

5:48
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

6:12
わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。

7:1
人を裁くな。 

  これらの教えを実践していく、それが狭い門から入り、細い道を歩き続けることだと理解することができます。これらの教えを実行するのはむずかしいといって実践しないなら、それは広い門から入ることになります。そして私たちは狭い門から入るか、広い門から入るかどちらかなのです。

さあ、どうしましょう。

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