キリスト者にとって救われて生きるとは、キリスト者として成長することであると私は信じています。キリスト者は罪から救われています。罪からの救い、それはただ罪が赦されるだけではありません。神の助けを得て具体的な罪に打ち勝つ歩みをすることです。
キリスト者は礼拝で説教を聞き、あるいは家で聖書を読み、親しみ、神さまのみ心を知るようになります。そうすると自分の思い、自分の行動がどうなのかを考えざるをえなくなります。信仰者ですから、神の御心に従う歩みをしたいと考えます。しかし時に、自分の心が神さまの御心と反対側にあることに気づきます。つまり神さまの御心に従うべきだと思いつつ、自分の心はそれに逆らうのです。御心に従うことにためらいを覚え、従いたくないという心があることに気づきます。
あるキリスト者は神の御心はむずかしい、不可能よねと言って、御心に目を背けます。あるキリスト者は、自分ができる範囲で神の御心に従えば良いと考えます。しかしあるキリスト者は、心に葛藤を覚え悩み苦しみます。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないのです。なすべき事が何かを知っていながら、それを行わず、反対のことをしてしまいます。
こんな事を繰り返し、あるキリスト者は、自分って罪深い人間なんだと考え、そこに留まってしまいます。さらにあるキリスト者は、自分はなんてみじめな人間なんだと落ち込みます。「わたしはなんとみじめな人間でしょう」(ローマ 7:24)。しかし神は救いの神であることに気づき祈るのです。
詩編 51:12
神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。
キリスト者はすでに霊を授かっています。
使徒 2:38~29
すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」。
ガラテヤ 5:16
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
聖書は聖霊の導きを求めて歩むことを教えています。聖霊の働きは何でしょうか。聖霊は、神の御心に従いたいとの思い、神に従うことを喜びとするように私たちを導きます。その結果、御心に従おうとの意志が強められ、御心を行うように導いてくれます。神の御心に逆らう肉の欲望に勝てるように聖霊が導いてくださいます。聖霊の助け、導きを祈って歩むことが大切となります。
罪からの救い、それは聖霊の導き、助けを得て御心に従って歩むようになることです。これがキリスト者の成長です。このように生きるために、神さまは救いの恵みを用意してくださっています。