私は今、妻と二人の生活をしています。共に老い、記憶力も衰え、体力も落ちてきました。そうした中で、共に生きるためにお互いに支え合うことの大切さ、必要を覚えると同時に、支え合うことのできる幸いを感じます。それ故、いつの日か、どちらかが天に召されると残されたほうが一人で暮らしていくことになる日の到来を頭では分かっていますが、その日の到来は考えないようにしています。大切なのは今を生きることだと思うからです。先のことを考えると思い煩いが発生します。
二人で生活していて大切だと思うことは心を広くし、寛容になることです。老いて何事も十分にできなくなった者同士、相手に対して広い心を持ち、心の中で赦して生きることが大切だと思います。互いに相手を慈しむというか、相手のことを大切に思うことがささやかながら喜びになっていきます。
あらためて振り返ると結婚以来、朝夕共に祈る生活を続けてきました。それは今も変わりません。共に祈る人がいることの幸い、お互いのために祈ることのできる幸いを思います。老いを生きることの恵みの一つは、共に信仰に生きることができる幸いにあると思います。いつかある時、どちらかが天に召されると、残された方は悲しみの中に置かれます。ある知人は、夫を天に送って一年が過ぎても喪失感と寂寥感の中にあると言っていました。伴侶を喪うことは試練であると知ります。キリスト者の歩みは順風満帆ではありません。そもそもイエスはこう言っています。
ルカ 9:23
それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
イエスに従うことを願う者は十字架を背負うとあります。でもイエスは十字架を背負う者の目の前を共に歩いてくださると約束されています。
老いを生きる時、大切なことは、神の国の希望を抱くことであると思います。キリスト者は死を待って人生を終わるのではなく、死という扉の向こうにある神の国に迎えられます。この希望をたしかにしたいと思います。