聖書 ルカ 9:1〜9
説教 主イエスと共に働く者
→礼拝堂の暖房工事が終わりました。
- 今日の礼拝を迎えることができるように、
- 都合のつく方たちが集い、準備をしました。
- 椅子や床をぞうきん掛けしてきれいにしたり、
- 礼拝堂に入る手前の部分の床が滑りやすくなったので
- 急遽絨毯を買ってきて敷きました。
- コインランドリーに行って椅子の上のカバーを洗いました。
- 椅子もきれいに並べ直しました。
- 安心して、喜びをもって礼拝をささげるために
- 気づいたことを、協力して行いました。
- 共に労する、これは喜びではないでしょうか。
- 共に労する人がいる、これも喜びではないでしょうか。
→パウロは言います。
- 「私たちは神のために力を合わせて働く者です」。
- 新約聖書には、苦労、労苦という言葉が共に、よく用いられています。
- 神様のために、主イエスのために苦労する、労苦を惜しまない、
- それが信仰者の生き方として描かれています。
- 信仰とは、受けるばかりではなく、与えるものであることを知ります。
- 教会とは、福音を宣べ伝える教会の働きのために共に労苦する者たちの集まりです。
- 労苦を共にする人のことを同労者と言います。
- 同労者、いい響きを持つ言葉だなと思います。
→1節。主イエスは12弟子をご自分のもとに呼び集めました。
- まず主イエスは、弟子たちに言うのです。
- 「あなたがたに悪霊に打ち勝ち、病気を癒やす力と権能を与える」と。
- 弟子たちはこれまで、主イエスが悪霊を追い出し、病気を癒やすのを見てきました。
- 主イエスは弟子たちに主イエスと同じことをする力、権能を与えたのです。
- 弟子たちは互いに言ったかも知れません。
- 「こんな力を与えられていいものだろうか」
- 「これはすごい、ワクワクするぞ」
- 「俺たちも病気の人を救える。主イエスと同じ働きができる、最高だ」。
- 「そんな力を与えられて、大丈夫なのか」。
- 私は牧師として、病気の教会員を前にしたとき、
- このような力、権能を賜物としていただきたいと何度も願ったことがあります。
- 残念ながら病人に手をおいて、即座に病気が治ったという経験はありません。
→主イエスは、弟子たちを遣わすのです。
- 弟子たちは、神の国を宣べ伝え、病人を癒やすために主イエスに遣わされるのです。
- マルコ福音書では、弟子たちは二人一組で遣わされたとあります。
- 弟子たちだけで、町や村へ行って、神の国を宣べ伝え、病気を癒やし、悪霊を追い出すのです。
- 「神の国はここにある。
- 神さまのご支配があるから、病気が直る、悪霊が追い出される。
- 神さまのご支配の下に来なさい」
- 弟子たちは宣べ伝えたのです。
→主イエスはなぜ、弟子たちを遣わしたのでしょうか。
- 主イエスはまもなく、エルサレムに向かいます。
- そこでまだ訪れていないガリラヤの町や村に、
- 神の国を宣べ伝えるために弟子たちを派遣します。
- 弟子たちは主イエスと同じ働きをするのです。
- 8章1節では、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って、旅を続けられた」とあります。
- 今日の聖書の6節。
- 「12人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気を癒やした」とあります。
- 今や、弟子たちが主イエスの代わりに、主の働きを受け継いで行うのです。
→弟子たちは、主イエスから、神の国の福音を宣べ伝える働きをゆだねられたのです。
- ゆだねられるとは、責任を負うことです。
- 人は何かを自分にゆだねられる時、それを名誉とし、喜ぶものです。
- 政治の世界では、大臣とか、役職に任命されることがありますが、
- 名誉なこととして、政治家は与えられた職務に努力するものです。
- 学校の先生の場合は、生涯一教師と言って、校長のような上級職につくことを避けるというか、つかない生き方を選ぶ人がいます。
- 教師である限り、生徒の教育をゆだねられるわけで、責任を持って仕事をします。
- 責任を持つことは大変な面がありますが、責任を果たすことには喜びがあります。
- 弟子たちは、主イエスと同じ働きをゆだねられるのです。
- 悪霊を追い出し、病気を癒やす力を与られるのです。
- 主のために働く、主の同労者となる、これは光栄なことではないでしょうか。
- 主のために働く、主の同労者となる、これは喜びではないでしょうか。
→主イエスは弟子たちを遣わすに際し、二つのことを命じます。
- 一つは、「旅には何も持って行ってはならない」。
- 杖、袋(水を入れる)、食料、お金、着るものを持っていくなとの命令です。
- これらは、旅をする時には、必要なものです。
- それを持っていくなというのです。
- おかしな命令を主イエスは与えると思うかも知れません。
- 主イエスはなぜ、このような厳しい命令を与えるのでしょうか。
- それは、弟子たちが神の国を宣べ伝えることと関係があります。
- 神の国の福音を宣べ伝える者は、神の国に生きる者でなければなりません。
- 神の国に生きる幸い、喜びを感じているからこそ、人に伝えることができます。
→神の国を宣べ伝えるとは、神の国に生きることは幸いであると語ることです。
- 神の国とは、神様のご支配ということです。
- ですから、
- 神のご支配の下に生きる幸いを伝えるのです。
- 弟子たちは何も持たずに旅をします。
- 弟子たちは全面的に神のご支配のもとにあることを信じるのです。
- 彼らは神の国に生きる者として旅をするのです。
- 神に信頼するのです。
- 必要なものは神が備えてくださることと神に信頼して旅をするのです。
- だから何も持っていかないのです。
- そして神さまのご支配はここにあると言って病人を癒やし、悪霊を追い出すのです。
→伝道者のパウロがフィリピという町で福音を宣べ伝えました。
- その時、リディアという女性が、自分の家に来るように招きました。
- 神は伝道者の生活を支えるように導かれるのです。
- 伝道者の生活を配慮する人を備えられるのです。
- 牧師もまた神様のお支えを信じて、神様が行きなさいと言われる土地に行って
- 福音を宣べ伝えます。
- 神のご支配の下に生きるから、神のご支配を福音として宣べ伝えることができます。
- そしてイエス・キリストを信じる人は皆、神様のご支配を信じて生きるのです。
- 自分の人生自分で何とかしなければならないと考えると、思い煩いが生じます。
- 神様のご支配を信じる人の特徴は、思い煩わないことです。
- 神の導きを信じ、私どもの人生を神の導きにゆだねるのです。
- そこに神の国に生きる人の幸いと喜びがあります。
→もう一つの注意は、どこかの家に入ったら、そこにとどまりなさいとの命令です。
- ある村に行き、そこで福音を宣べ伝え、癒やしを行うなら、きっと宿を提供する人がいる。
- 神がその人を通して、寝る場所、食べるものを与えてくださるのです。
- その家の世話になりながら、そこでしばらく伝道しなさいとの命令です。
→しかし、ある村へ行って福音を宣べ伝えても、人々が関心を示さず、
- 従って宿を提供する人もいない場合は、そこを去りなさいとの命令です。
- 福音を拒む人がいるというのです。
- 伝道は成功するとは限らないのです。
- 伝道が不成功に終わるのは、伝道する人の責任ではありません。
- 拒絶する人もいるのです。
- その時は、足のちりを払って去りなさいと言うのです。
- <この村の人に私は福音を伝えました。この村の人が神さまから不信仰を咎められても、
- 私には責任がありません>という意味です。
→弟子たちは、神様のご支配の中を生きる幸いを宣べ伝えました。
- 神の国に生きる喜びを伝えました。
- 弟子たちは、主イエスの働きを受け継ぎ、そして教会が受け継いできました。
- 伝道とは、主イエスの働きを継続して行うことです。
- 今日の聖書の弟子たちの働き、そこに教会の働きが始まったということができます。
→現代の教会もまた、主イエスの業を行っているのです。
- 教会はイエス・キリストの福音を宣べ伝えます。
- 神様のご支配は、病気の癒やしの中にだけ現れるものではありません。
- 主イエスはやがて十字架の上で死に、三日目に復活されます。
- 主イエスの十字架の死と復活、ここに教会が宣べ伝える福音があります。
- 罪と死からの解放、自由、これが福音です。
- 罪に支配された人たちが罪から解放され、神の子として、自由な人間として生きることができる、これが福音です。
- 神様のご支配は、私どもを罪から自由にし、私どもの心を清い心に造りかえる恵みのご支配です。
- そう、私どもは、神を愛し、人を愛して生きることができるようにされます。
- 神様にゆだねて人生を送ることができるのです。
→私どもの教会では、神様のご支配の証拠として、病気の癒やしを行うことはありません。
- 弟子たちのように力と権能を与えられてはいません。
- 私どもは病人のために、神様に癒やしを祈り求めます。
- でも神様のご支配の証拠としてのいやしを求めることはありません。
- むしろ、神様のご支配を信じて、癒やしを祈り求めます。
- 神はある時には、医師の治療を通して病を癒やされるでしょう。
- 神はある時には、病人の持つ治癒力によっていやされるでしょう。
- 教会は、病気を癒やす力、悪霊を追い出す力は賜物として与えられていないかも知れません。
- 教会には、もっと大切な賜物として信仰、希望、愛が与えられています。
→教会は、愛という大きな価値ある賜物を与えられているのです。
- 私ども信じる者の心には、聖霊により神の愛が注がれているのです。
- これは信ずべきことです。
- 実感があるかないかは関係ありません。信ずべきことです。
- 信じて歩めば、実感は後からついてくるのです。
- そこで私どもは互いに愛し合うことが命じられています。
- そして喜んで愛し合うのです。
- そしてこの愛が、多くの人たちの心を癒やすのです。
- 今年一年を表す言葉として「絆」という文字が選ばれました。
- 自分のことしか考えない生き方が問い直され、
- 他者と共に生きる、人と人との絆の大切さが認識されたのです。
- 人は一人で苦しむ時、生きていけなくなることがあります。
- しかし、互いに愛し合う交わりの中にいる時、
- 苦しみがあっても人は力を与えられ、生きていくことができます。
- 共に生きる仲間がいる、愛し合う仲間がいる、それが生きる力となります。
- 教会は愛という賜物を神から与えられています。
- そして福音を宣べ伝え、人々を救う働きを主イエスからゆだねられているのです。
- 私どもは、主イエスと共に働く者たちなのです。
- 光栄ある働きに召されているのです。
→そして私どもは、神の国の希望に生き、神の国に生きるのです。
- 今ここに神のご支配があると信じて、神の導きにゆだねて歩みます。
- そして神の国が到来することを望んで生きていきます。
- この希望、信仰が福音であり、これを宣べ伝える使命を私どもは与えられています。
- 年を取った信仰者は、神さまのご支配を信じ、神様にゆだねて人生を生きることができることを力強く語ることができるでしょう。
- 年を取った信仰者は、神の国を待ち望むことが、死を前にして生きる支えとなることを確信を持って語ることができるでしょう。
→弟子たちは、主イエスから与えられた力を用いて、人々の病気を癒やします。
- 神の国を宣べ伝えます。
- その時彼らは改めて自分に問いかけるのです。
- この方、主イエスというお方はどういうお方なのかと。
- 主イエスが病気を癒やし、悪霊を追い出すのを見て、驚き、
- この方はどういうお方なのだろうかと思いました。
- 弟子たちが主から与えられた力を用いる時、
- この方はどういうお方なのだろうか、ともう一度考えるのです。
- そして、この方は本当に力ある救い主であることを知るのです。
- 主イエスと同じことをするとき、主イエスがどなたであるのかが分かっていくのです。
→私どもが人を愛していく時、私どもが主に愛されていることが身にしみて感じられるのです。
- 私どもが人を赦す時、主の愛に赦されていることが分かるのです。
- 主の導きを信じて、福音を宣べ伝え、愛をもって癒やしの働きを担っていく時、
- 私どもは、主の心を知るようになるのです。
- 伝道の働きを光栄あるものとして受けとめることができるようになります。
- 主と共に働く者であることを喜ぶようになるのです。
- 主に生かされる恵みを感謝するようになります。
- 祈ります
祈り
福音をこの日本まで届け、
金沢の地にもたらすために様々な人を用いられた神、
あなたの働きに、あなたに用いられ、あなたと共に働いた方々の働きに感謝します。
私どももまた福音を宣べ伝え、人々を救うあなたの働きに参与する者として
あなたに用いられることを願います。
パウロのように
「私たちは神のために力を合わせて働く者です」と喜びをもって共に告白します。
教会に集う私どもは神の家族でありますが、同時に
同労者でもあります。
人それぞれに賜物の違いがありますが、
与えられた賜物を十分に用い、キリストの体としての私どもが
神の働きのために労する光栄を知り、
神の働きのために労する喜びを知ることができますように。
ここに生きる真の目的があることを教えてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。