信仰
人は信仰によって救われるのか、それとも行いによって救われるのか。そのような問いを立てることができます。
「信仰」によって各自の自覚に伴う人格形成的な生の活動を意味するなら、いわゆる「宗教」がつねにこの道程に沿うものとは言いがたい。
実行できないと思っている神の教えに従う歩みに踏み出すのです。一歩踏み出すことを語る時に私が用いるたとえがあります。紹介します。
罪に勝利する、大げさな表現かもしれません。罪に打ち勝つ秘訣です。
キリスト者はキリストと共に死にましたが、キリストが死者の中から復活したようにキリスト者はキリストと共に生きることになります。
信仰には二つの面があります。信じるという個人の決断という面と、賜物という面があります。
神の約束は実現すると信じなさい。そうすればその通りになる。キリスト者とは神の約束を信じる者です。
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。・・・
イエス・キリストを信じる人は、イエス・キリストを結ばれます。イエス・キリストに結ばれたキリスト者には、神の約束が与えられています。
信仰とは「神さまの約束を信じて生きること、だから神さまは信じる者を義とする、これが私が推理する答えです。
イエス・キリストを信じる者は神の義を与えられるとあります。ではなぜ、神は信じる者を義と認められるのでしょうか。
神さまは、神の言葉を信じるアブラハムの信仰を義としました。信仰とは、神さまの恵みを受け取る管のようなものです。管を通って恵みが私たちのもとに来ます。
神さまがイエス・キリストを信じる者を義と認める、正しい者と見なす、これが信仰義認の教えです。そもそも信じるとは何を信じることなのでしょうか。
信仰によって義とされたことを本気で信じるための出発点は「信じる」とは何を意味しているかを知ることです。キリスト者は事実を大切にしますが、事実に基づいてる生きるのではなく、信仰によって生きます。
主イエスにつながって受け取る最初の恵みは、信仰によって義とされることです。私は、この教えをどれほどのキリスト者が本気で信じているのか、と疑問に思っています。
ローマ 8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
パウロは罪の赦しの先にあるものを見ています。イエスの語られた放蕩息子の物語は赦しの先にあるものを見せてくれます。
信仰によって義とされることを語る時、パウロは罪の赦しを語りません。なぜなのか、と思います。
「信仰によって義とされる」とはどういうことなのか、考えたいと思います。
現実の世界の中で信仰をもって生きることは簡単ではありません。色々な場面で罪との戦いがあります。教会に集う一人ひとりの信仰者が、それぞれの場で戦っています。
キリスト者は時に深刻な罪との戦いに直面します。神さまの御心に従いたくないという思いが、私たちの心にあるのです。
すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
キリストに結ばれた人は、キリストと共に死にます。罪に対して死に、罪から解放されます。
キリストに結ばれるとどうなるのでしょうか。キリストと共に葬られ、キリストと共に復活する。
キリストに結ばれた非違のことを聖書は、義人、神の子、新しく造られた者と呼んでいます。
聖書が語ることが信じられない時があります。信じるべきだと思いつつも信じられない。そんな時どうしますか?
人生航路の第二段階は、キリストに結ばれたことを自覚して生きる段階です。まずキリストに結ばれていることを信じます。
神の約束に生きる信仰者の気持ちを思いめぐらします。
人生航路の第一段階を生きる人の特徴は、自分の力で生きることであり、そして様々な問題を抱えての歩みです。
私たちの人生航路には3つの段階があるのではないかと私は考えています。第一の段階は、この世に誕生してから、イエス・キリストに結ばれて生きるまで。