信仰
神の救いは人間の思いを越える内容を持っています。心を開いて、神の救いのそのままに受け入れたいです。
イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果てているのを見て深く憐れんだとあります。自分が飼い主のいない羊であると気づいた時、私の心は晴れやかに。
届いた説教集の中に書かれていた言葉。「誘惑の正体は、神のことを思わない方に誘うことです」。心が定まりました。
恵みの高き嶺に上り、解決したい悩みがあります。信仰に懐疑的になるときがあります。悪魔の罠かもしれません。
神には、キリスト者が聖なる者になって欲しいとの願い、計画があります。神はご自身との交わりにキリスト者を招き、その計画を実現させます。そこに義とされる目的があります。
罪の赦しは神の恵みです。神の恵みは罪の赦しだけではなく、私たちを神に従う信仰者にさせます。
神は救い主イエスを世に送りました。イエスは罪を赦すためのいけにえとして十字架で死にました。罪を赦す神の方から、罪の赦しのためのいけにえを出すなんてありえない?
神によって与えられている救いの可能性を受け入れず、それを狭めているとすれば、それはつまずいているのではなる。私が抱くキリスト者の問題意識です。
主イエスは山上の説教で、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と語りました。私たちキリスト者は、地の塩、世の光。ほんとうですか?
イエス・キリストは私たちの罪の贖いのために十字架で死なれたことを信じるのは、キリスト教信仰の根本です。罪を赦されるためにささげるいけにえを赦す側の神がささげるなんてありえない。
神はアブラハムに、あなたは妻サラによって子を授かると約束しました。彼の妻は90歳。ありえない?
神の語りかけを聞くことができる。そんなことはありえない、ありえないとよのひとびとはいうにちがいありません。でも私たちは聞きます。
聖書の中にある出エジプトの出来事。神の大いなる御業によるイスラエルの民の救出の出来事です。ありえないと思われる出来事の連続です。
キリスト者はありえないと思われることを信じる存在です。たとえばイエスの復活。死者が生き返るなんて、人間の常識からすれば、ありえない。
私たちはなぜ神の戒めを守るのでしょうか。義務感からではなく、自由な心で守りたいです。神の戒めは私たちを祝福するためにあります。
旧約聖書は、イスラエルの歴史が神との交わりをないがしろにする歴史であることを明らかにしています。
アブラハムは神から呼びかけられ、神との関わりに歩みました。イスラエルの民は奴隷からの助けを求め、神と民とされ、神との交わりに生きる者とされました。
私は若いときこう考えました。死を越える希望を本当に信頼できるようになるためには、この世にあって神の約束に生きる歩みをしようと。
頭の中にあるメロディーが流れてきました。讃美歌のメロディーだと思いました。後で探すために、メロディーをメモしました。その歌詞は、神からのメッセージでした。
キリスト者が生まれ変わったとは、人格としての「私」が生まれ変わったことを意味します。神なしに生きていた「私」が、神を信じて生きる「私」になった。
イエスは語ります。「罪とはわたしを信じないこと」。大胆な発言です。
人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。
死を越える希望を「教え」として受けとめるのではなく、 「神の約束」として受けとめるなら、うれしい希望となるのではないでしょうか。
主を賛美することを喜ぶ、それは私のうちに主イエスが生きておられるからではないかと考えるこの頃です。
疑う心に対する対処法。私の場合。信仰者としてのアイデンティティー。聖書の真理性。
私が神の言葉によって生きているとは、主イエスが私の内におられ、私の内に生きておられるということです。
イエスが復活したことを祝うイースタ。イエスの復活を信じるとは、主イエスが今、生きておられるという現実に自分が生きること。
私の心にスキがあるので、サタンは疑う心を、私の心の中に送ったと考えます。信仰者には悪魔との戦いがあります。
キリストの復活は死者の復活の初穂。「お前も復活するんだぞ。信じるのか」と迫ってくる者がありました。
パウロはその身に刺が与えられ、それは彼の弱さでした。それはサタンが置く歌使いでした。