信仰
モーセの後継者として選ばれたのがヨシュアです。神はヨシュアに約束をしました。
モーセは信仰の人でしたが、1回、神さまの命令に従いませんでした。
讃美歌11番の原詩の紹介
信仰には疑いがつきまとうことは当たり前のことと考えています。自分が疑い深いことは、疑い深い人に福音を語る上で、役に立つと考えてきました。
僕は聖書をずっと読んできました。信仰とは神の約束を信じることだと学びました。そして神は約束を守る真実な方だと知りました。
モーセに率いられてエジプトを脱出し、神が与えられる地を目指して旅を始めたイスラエルの民。旅の途中、シナイ山の麓で神はイスラエルの民と契約を結ばれました。
神の呼びかけを聞き、神の約束と命令に生きたモーセ。
三つのことをアブラハムから学ぶことができると考えました。
神はアブラハムを試しました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。
聖書が伝える信仰は、神の約束を大切にする信仰です。神の約束を我が身に実現させることを大切にする信仰です。
聖書が伝える信仰って何だろう、どんな特徴があるのだろう。ずっと考えてきました。一つの結論は、神との交わりに生きる信仰、これが聖書が伝える信仰だと思っています。
イエス・キリストを信じるとき、 人は新たに生まれた。 人はキリストに結びつけられた。
聖書を読むと、神を信じて生きるとは神との交わりに生きることであると教えられます。
パウロは、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望して」いると語ります。私の願いは、この世を去って、神を見ることです。
この世での生涯はいつの日か終わりを迎えます。それが遠くないことを感じる年齢になりました。信仰者としての大きな楽しみは、復活した時の自分がどんな自分なのかを見る楽しみです。
主イエスは天国を語るとき、タラントンのたとえを話されました。最後の裁きと結びつけて考えます。
人は信仰によって救われるのか、それとも行いによって救われるのか。そのような問いを立てることができます。
「信仰」によって各自の自覚に伴う人格形成的な生の活動を意味するなら、いわゆる「宗教」がつねにこの道程に沿うものとは言いがたい。
実行できないと思っている神の教えに従う歩みに踏み出すのです。一歩踏み出すことを語る時に私が用いるたとえがあります。紹介します。
罪に勝利する、大げさな表現かもしれません。罪に打ち勝つ秘訣です。
キリスト者はキリストと共に死にましたが、キリストが死者の中から復活したようにキリスト者はキリストと共に生きることになります。
信仰には二つの面があります。信じるという個人の決断という面と、賜物という面があります。
神の約束は実現すると信じなさい。そうすればその通りになる。キリスト者とは神の約束を信じる者です。
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。・・・
イエス・キリストを信じる人は、イエス・キリストを結ばれます。イエス・キリストに結ばれたキリスト者には、神の約束が与えられています。
信仰とは「神さまの約束を信じて生きること、だから神さまは信じる者を義とする、これが私が推理する答えです。
イエス・キリストを信じる者は神の義を与えられるとあります。ではなぜ、神は信じる者を義と認められるのでしょうか。
神さまは、神の言葉を信じるアブラハムの信仰を義としました。信仰とは、神さまの恵みを受け取る管のようなものです。管を通って恵みが私たちのもとに来ます。
神さまがイエス・キリストを信じる者を義と認める、正しい者と見なす、これが信仰義認の教えです。そもそも信じるとは何を信じることなのでしょうか。
信仰によって義とされたことを本気で信じるための出発点は「信じる」とは何を意味しているかを知ることです。キリスト者は事実を大切にしますが、事実に基づいてる生きるのではなく、信仰によって生きます。