信仰
主を賛美することを喜ぶ、それは私のうちに主イエスが生きておられるからではないかと考えるこの頃です。
疑う心に対する対処法。私の場合。信仰者としてのアイデンティティー。聖書の真理性。
私が神の言葉によって生きているとは、主イエスが私の内におられ、私の内に生きておられるということです。
イエスが復活したことを祝うイースタ。イエスの復活を信じるとは、主イエスが今、生きておられるという現実に自分が生きること。
私の心にスキがあるので、サタンは疑う心を、私の心の中に送ったと考えます。信仰者には悪魔との戦いがあります。
キリストの復活は死者の復活の初穂。「お前も復活するんだぞ。信じるのか」と迫ってくる者がありました。
パウロはその身に刺が与えられ、それは彼の弱さでした。それはサタンが置く歌使いでした。
「恵みの高き嶺(ね)」という聖歌を youtube で聞いたことがきっかけでした。
イエスの弟子トマスのことを誤解していたことに気づきました。私はトマスと違って信じる心と疑う心が同居しています。
洗礼を受けキリストに結ばれた者は、「神の子なのです」とあります。そこでまず、自分が神の子とされたと考え(信じ)喜びます。
使徒パウロはロマ書6章で次のように語っています。パウロが語る洗礼、それが聖霊のバプテスマだと私は理解します。
信仰を考える時、信仰的事実と経験的事実との違いを知ることが大切です。信仰的事実は霊的事実と言うこともできます。
私たちは限りある人生を歩みます。人間にとってそれは最善なのだと考えます。
老いは一つの弱さです。老いに対応することが阿むずかしい面があります。しかし弱さを誇る人がいます。。
「恵みの高き嶺」。聖歌にある曲です。恐れや疑いから解放された信仰の境地としての恵みの高き嶺。憧れます。
信仰に生きる時、疑いという影がつきまとうものだと考えてきました。でもふと思うのです。なぜ疑う心があるのだろうか。
礼拝説教 聖書 創世記15章1~6節 ローマの信徒への手紙 4章13~25節 説教 神を信用する
赦しを考えるとき、二つの面があると考えます。神と向き合う自分として、相手と向き合う自分として。
私が今回信仰生活の出発点と考えたのは、罪に立ち向かう信仰の歩みを始める時を出発点としたいと思ったからです。4つのことに心を留めたいと思います。
「私」と私の心の区別の実例を紹介します。私の心には色々な思いが湧いてきます。それらの思いにどう対処するのか、それが「私」です。
罪から解放された「私」が罪を犯すのはなぜでしょうか。罪を犯したくないと強く考え、意志する「私」が罪を犯すのはなぜでしょうか。それは私たちが体を持っているです。
実質的な信仰生活の出発点は、「自分は罪を犯したくない」との思いをもって生き始めるときだと私は考えます。
今日思いめぐらした聖書箇所は、ロマ書の6章11節です。ここには興味深い表現があります。「~と考えなさい」という表現です。パウロは「信じなさい」とは言わないのです。
日曜日の朝、訃報が届きました。訃報が届くたびに自分はどのような希望をもって生涯を閉じるのかと考えます。
赦しについて私の考えを紹介します。私に対して罪を犯した人が謝罪したら、私は赦します。・・・
この世の大きな悲劇は、人間は全力を傾けて幸福を求めながらも、それを見出せそうもないということである
エゼキエルは捕囚の地にあってイスラエルの民に語るよう命じられました。不信仰な民は反逆の民、反逆の家と呼ばれます。
モーセの後継者として選ばれたのがヨシュアです。神はヨシュアに約束をしました。
モーセは信仰の人でしたが、1回、神さまの命令に従いませんでした。
讃美歌11番の原詩の紹介