信仰
礼拝説教 聖書 創世記15章1~6節 ローマの信徒への手紙 4章13~25節 説教 神を信用する
赦しを考えるとき、二つの面があると考えます。神と向き合う自分として、相手と向き合う自分として。
私が今回信仰生活の出発点と考えたのは、罪に立ち向かう信仰の歩みを始める時を出発点としたいと思ったからです。4つのことに心を留めたいと思います。
「私」と私の心の区別の実例を紹介します。私の心には色々な思いが湧いてきます。それらの思いにどう対処するのか、それが「私」です。
罪から解放された「私」が罪を犯すのはなぜでしょうか。罪を犯したくないと強く考え、意志する「私」が罪を犯すのはなぜでしょうか。それは私たちが体を持っているです。
実質的な信仰生活の出発点は、「自分は罪を犯したくない」との思いをもって生き始めるときだと私は考えます。
今日思いめぐらした聖書箇所は、ロマ書の6章11節です。ここには興味深い表現があります。「~と考えなさい」という表現です。パウロは「信じなさい」とは言わないのです。
日曜日の朝、訃報が届きました。訃報が届くたびに自分はどのような希望をもって生涯を閉じるのかと考えます。
赦しについて私の考えを紹介します。私に対して罪を犯した人が謝罪したら、私は赦します。・・・
この世の大きな悲劇は、人間は全力を傾けて幸福を求めながらも、それを見出せそうもないということである
エゼキエルは捕囚の地にあってイスラエルの民に語るよう命じられました。不信仰な民は反逆の民、反逆の家と呼ばれます。
モーセの後継者として選ばれたのがヨシュアです。神はヨシュアに約束をしました。
モーセは信仰の人でしたが、1回、神さまの命令に従いませんでした。
讃美歌11番の原詩の紹介
信仰には疑いがつきまとうことは当たり前のことと考えています。自分が疑い深いことは、疑い深い人に福音を語る上で、役に立つと考えてきました。
僕は聖書をずっと読んできました。信仰とは神の約束を信じることだと学びました。そして神は約束を守る真実な方だと知りました。
モーセに率いられてエジプトを脱出し、神が与えられる地を目指して旅を始めたイスラエルの民。旅の途中、シナイ山の麓で神はイスラエルの民と契約を結ばれました。
神の呼びかけを聞き、神の約束と命令に生きたモーセ。
三つのことをアブラハムから学ぶことができると考えました。
神はアブラハムを試しました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。
聖書が伝える信仰は、神の約束を大切にする信仰です。神の約束を我が身に実現させることを大切にする信仰です。
聖書が伝える信仰って何だろう、どんな特徴があるのだろう。ずっと考えてきました。一つの結論は、神との交わりに生きる信仰、これが聖書が伝える信仰だと思っています。
イエス・キリストを信じるとき、 人は新たに生まれた。 人はキリストに結びつけられた。
聖書を読むと、神を信じて生きるとは神との交わりに生きることであると教えられます。
パウロは、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望して」いると語ります。私の願いは、この世を去って、神を見ることです。
この世での生涯はいつの日か終わりを迎えます。それが遠くないことを感じる年齢になりました。信仰者としての大きな楽しみは、復活した時の自分がどんな自分なのかを見る楽しみです。
主イエスは天国を語るとき、タラントンのたとえを話されました。最後の裁きと結びつけて考えます。
人は信仰によって救われるのか、それとも行いによって救われるのか。そのような問いを立てることができます。
「信仰」によって各自の自覚に伴う人格形成的な生の活動を意味するなら、いわゆる「宗教」がつねにこの道程に沿うものとは言いがたい。
実行できないと思っている神の教えに従う歩みに踏み出すのです。一歩踏み出すことを語る時に私が用いるたとえがあります。紹介します。