クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

恵みの高き嶺(続き)

2.恐れのある地に などかは留まらん
  疑惑の雲をば 早く下に踏まん
  光と聖(きよ)きと 平和に満ちたる
  恵みの高き嶺(ね) われに踏ましめよ

 これは『聖歌』にある「恵みの高き嶺」という曲の2番の歌詞です。

 私たちは恐れに支配されることがあります。恐れに囚われたペトロはイエスのことは知らないと3回も語りました。恐れは人を保身に向かわせることがあります。

 私たちは色々な恐れに支配されて不自由になります。失敗することを恐れたり、人からどう思われるかを気にしたり、身の危険を恐れたり、これから先のことを不安に思ったりします。人生を振り返ると色々な恐れと葛藤してきたことを思い出します。

 この聖歌は「恐れのある地」に留まらず、恐れから自由になる恵みの高き嶺に行きたいと歌います。さらには「疑惑の雲」を早く下に踏まんと歌い、疑惑から自由にされて信仰に生きる恵みの高き嶺に登りたいと歌われます。

 私はこの2番の歌詞に共感していることに気づきました。出会った相手を知るうちにその人が大事な人になることがあるように、この歌を聞いているうちに、この歌詞が目に留まり、共感するようになりました。

 疑うという理性の働きは大切です。私は大学生の時、「神に興味がありませんか。神を信じさせてあげますよ。話しを聞いてくれませんか」と声をかけられ、大学の構内のベンチに座りながら話しを聞いたことがあります。最後に、集会に来ませんかと誘われました。私はまだ神を信じていませんでした。「神を信じさせてあげる」という言葉に胡散臭さ感じ、誘いを断りました。統一協会の人でした。統一協会の大学での伝道は盛んでした。

 太陽に向かって歩けば後ろに影ができます。神を信じて進めば、後ろに影として疑いがあると考えています。疑いながら信じる、信じながら疑う、そういうことがあってもよいと考えています。正確に言うなら、疑いがあるけれども、それにもかかわらず信じる歩みをする、私の信仰はこのタイプです。疑うことなく、心から神を信じるタイプの信仰もあると思います。

 歳をとり、人生の終わりを意識する老いを生きる者として、素直に疑わずに神の国を信じることができる「恵みの高き嶺」に憧れます。

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