12月3日、説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
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聞いていただけるとうれしいです。
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聖書 イザヤ書53章1~5節
ローマの信徒への手紙 5章1~5節
説教 神との平和
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以下、原稿です。
0.テーマ
→今日は、イエス・キリストを信じ信仰によって義とされた人の祝福について聖書に聴きたいと思います。
信仰によって義とされるとは、神から「あなたはわたしの前に正しい人間である」と宣言されることを意味します。
義とされるとは、ただ罪が赦されるだけではなく、
「あなたはわたしの前に正しい人間である」と
神から、宣言されることを意味します。
このみ言葉は、信仰とは、神と自分との関係を大切にするものであることを教えています。
神は、私との関係を大切にされる方です。
神は、私という存在を大切にされる方です。
神は、「あなたはわたしの前に正しい人間である」と私に向かって宣言されるのです。
今日はこの義とされることの恵み、祝福について聖書に聴きます。
1.私たちはなぜ義とされる必要があるのか
→そもそも、私たちはなぜ義とされる必要があるのでしょうか。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の1章16節で、「私は福音を恥としない」と語ります。
「福音は私たち信じる者に救いをもたらす神の力であり、
福音には神の義が啓示されている」と語ります。
イエス・キリストを信じて義とされる、それが救いであるというのです。
→では私たちは何から救われるのでしょうか。
それは神の怒りからの救いです。
ローマ 1:18
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
→人間の不信心と不義に対して神は怒りを現すとあります。
不信心とは神に対する罪、神を敬わないことを意味します。
神に信頼しないことを意味します。
聖書が伝える神以外のものを神と崇めることが不信心です。
不義とは他者に対する罪を意味します。十戒で殺すな、盗むな、姦淫するな、偽証をするな、貪るな、の戒めを犯すことが不義です。
これ以外に人間社会で人間としてすべきでないことをする、それが不義です。
「真理の働きを妨げる」とあります。
それは、神なんかいないと神を恐れない高慢な行動、
そのような行動は不義であり、神の怒りを招きます。
私たち人間は皆、罪を犯し、神の怒りを受ける者となっています。
ローマ 2:5
あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
→怒りの日とあります。一般的にこれを最後の審判と呼びます。
この神の怒りからの救いを私たちは必要としています。
イエス・キリストを信じる人を神は義とし、神の怒りを受けなくてすむようにしてくださいます。
→最後の審判、神の怒り、神の怒りからの救い。
これらのことは絵空事に響くかもしれません。
当然、世の多くの人は信じようとはしません。
しかし神の教えを知るようになると私たちは自分の罪を知ります。
罪とは神の教えに背くことだからです。
自分が神の怒りにより滅びても仕方がないと思うほどの罪の自覚に導かれることがあります。
私はそのように導かれたので、最後の審判を私は信じます。
私は神を信じる者として神の裁きを恐れ、神を敬い歩みます。
2.神との間の平和
→イエス・キリストを信じて義とされることにより、
キリスト者は神の前に正しい人となります。
神の前に正しい人とは、行いが立派な人ではなく、
イエス・キリストを信じる人です。
どんなに行いが立派で欠点のないように見える人も
神の目には、罪を犯しています。
多くの人は神の教えを知らないので、
自分が罪を犯しているとの自覚を持ちません。
信仰の父と呼ばれるアブラハムは、神の言葉、神の約束を信じ、
神から正しい人と認められました。
神の言葉を信じ、神を信用する人が神の前に正しい人です。
→今日の聖書は、神の前に正しいと認められた人は、
神との間の平和を得ると書かれています。
この平和は、義とされた人に与えられる祝福です。
義とされたので、罪に対する神の怒り、罰を恐れなくてすみます。
世間の信仰を持っていない人でも、
何か辛いことや苦しいこと、災難みたいなことが起きると、
自分は何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に遭うのかと言うことがあります。
因果応報。悪いことをすれば、報いが来ると考えているのです。
信仰によって義とされた人は罪に対する罰を恐れなくて済みます。
神の前に義とされた私たちは、罰を受ける理由がないからです。
→キリスト者は、イエス・キリストを信じ、神との間に平和を得ます。
このことはキリスト者が神との関わりに生きることを教えています。
キリスト者は神との交わりに生きる人のことです。
キリスト者は、神との間に、平和というよい関係を得て生きることになります。
神との間に平和を得ている人は、
心の深いところに平安が宿ります。
何ものにも変えがたい平安です。
神は、「私はあなたと共にいる。私はあなたを愛している」と言ってくださるのですから、平安です。
神との間の平和は、義とされた人への祝福です。
3.恵みに立つ
→さらなる祝福があります。
2節にこうあります。
5:2
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
→「今の恵み」とあります。
キリストのおかげで「今の恵み」に
信仰によって導き入れられ、とあります。
キリスト者とは、「今の恵み」と呼ばれる処に導かれた人のことです。
→一つたとえを語ります。
ある人が法律を破り、逮捕され、裁判を受け
懲役刑に処せられたとします。
彼の生活環境は一変します。
彼はシャバの生活からムショ暮らしをすることになります。
ムショは刑務所のことで、狭い場所での不自由な暮らしを強いられます。
シャバとは刑務所の外の、一般の人が自由に生きる世界を意味します。
シャバの暮らしからムショ暮らし、これは大きな変化です。
キリスト者も信仰を得ることによって拠って立つ場所が変わります。
キリスト者は信仰によって義とされると、「今の恵み」に立ちます。
罪を犯す者を義としてくださる神の愛が支配する「今の恵み」にキリスト者は立ちます。
→キリスト者は生きる場所がどのように変わったのでしょうか。
キリスト者になる前は、人は自分の力によって生きていました。
自分の力に頼って生きていました。
多くの人は、この世にあって、
自分の力で生きています。
それを誇りとしています。
→キリスト者は違います。
キリスト者は、神の恵みに立って生きるのです。
言い換えると神の恵みの支配の中に生きるのです。
そのことがこの2節で、
「今の恵みに信仰によって導かれ」と書かれています。
信仰によって、とあるように、
自分は神の恵みに立っていると、信じることが大切となります。
私たちは信仰者です。信仰者とは信じて生きる人を言います。
神の恵みに信頼して生きる努力が大切となります。
キリスト者は、神の恵みに信頼するという努力をし、
具体的にどうするかを考え行動します。
→この自分の力で生きることと、
神の恵みの下で生きることの違いを
聖書は語っているので、それを確認したいと思います。
それは出エジプトの出来事です。
旧約聖書の出エジプト記に書かれている出来事です。
→昔イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しんでいました。
そして神に助けを求めて叫びます。
神はイスラエルの民に二つのことを約束しました。
第一に、私はあなたがたをエジプトの奴隷状態から解放する。
第二に、私はあなたがたを自由に生きることのできる地へ導く。
→神は大いなる力を発揮し、エジプト王をねじ伏せました。
その結果、エジプト王はイスラエルの民を解放しました。
第一の約束が実現しました。
イスラエルの民は自由に生きることのできる土地、
神が約束された土地を目指して荒野を旅します。
その旅の中で試練が起きます。
最初は、エジプト軍が追いかけてきたことです。
エジプト王はイスラエルを解放したことを後悔し、
イスラエルの民を連れ戻そうと追いかけてきます。
→イスラエルの民はどうしたでしょうか。
彼らは、自分の力で生きるという立場に立っていました。
自分の力で生きようとする人は、
自分の力ではどうにもならない状態になると望みを失い、
どうしていいか分からなくなります。
イスラエルの民は自分が無力な状況に追い込まれ、
不満を爆発させ、神に対して文句を言いました。
出エジプト14:11
「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか」。
→しかし、神は再び大いなる力を発揮し、
エジプト軍を打ち砕きました。
イスラエルの民は旅を続けます。
今度は飲み水がなくなるという困難に直面します。
すると民は、またもや文句を言います。
彼らは恵みの神に頼ることをしませんでした。
彼らは自分たちを助けてくれる神の恵みの下に生きることを選びませんでした。
神に信頼して助けを求めることをしませんでした。
自分の力で生きるという立場にこだわり、
そこから離れようとしませんでした。
神の助けが自分たちと共にあると信じ、この神の助け、神の恵みの中に生きることを選びませんでした。
神に信頼して生きることをしませんでした。
→信仰によって義とされるとは、この神の恵みに立って生きることです。
キリスト者は、この恵みを受ける立場、恵みによって生きる立場に導かれたのです。
イスラエルの民は神の恵みに信頼して生きるべきでした。
神さまは大いなる力を発揮して彼らを助けたのです。
イスラエルの民は神の恵みに信頼して生きることを選ぶべきでした。
→キリスト者とは、自分が神の恵みの下にあるという「今の恵み」にいることを信じる人です。
キリスト者は神の恵みに信頼して生きる人のことです。
キリストを信じる人は、自分が義とされていること、
このことに立ちます。
たとい自分が罪を犯すことがあっても、
なお義とされているとの恵みに立ち続けます。
この恵みに立つからこそ、キリスト者の救いは確かなのです。
罪を犯すのにそんなことを信じていいのかという人もいると思います。
神の愛は大きいのです。
罪を犯したからといって、義としたことを取り消すようなけちな神ではありません。
私はあなたを義とした。あなたが罪を犯したとしても、
私はあなたを義と認める、と愛であなたを包むのです。
罪を犯すキリスト者を憐れんでくださるのです。
この神の愛に包まれていることを知るとき、
キリスト者は変えられます。
神に信頼するように変えられます。
4.苦難を誇る
→3節でパウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」と語ります。
神との平和が与えられ、神が共にいてくださり、恵みの中に生きているのに、なぜキリスト者は苦難に直面するのでしょうか。
キリスト者になったら、問題のない人生、ハッピーな人生を送ることができると考えるのは、間違いです。
→イスラエルの民は、荒野の旅で困難に直面するつど、
神に文句を言いました。
神を信じる生活を始めたら、物事は何でもうまく行くという保証はありません。
人生は、問題だらけと言うことができます。
人は罪を犯しますから、その結果として問題が生じます。
他の人が犯した罪の結果に巻き込まれることもあります。
信仰生活を始めたからと言って、
自分の思い通りになる生活になるわけではありません。
→神さまは、神との交わりに生きるように招くお方です。
人が大人になって結婚し、夫婦の交わりに生き、
子が与えられれば、親子の交わりに生きます。
そこにおいて、愛し合う喜び、祝福があります。
そのための努力はもちろん必要です。
努力をすれば、愛し合う喜び、祝福があります。
神は、神との交わりに生きるようにキリスト者を招くお方です。
神との交わりに生きる幸いのしるしとして、
夫婦の交わり、親子の交わり、教会員との交わり、
隣人との交わりなど生きる幸いを与えてくださっています。
→もし私たちが試練に遭うなら、その試練には意味があります。
それは私たちの信仰を鍛える意味があります。
苦難の時、忍耐が必要となります。
私たちの心には、色々な思いが生まれます。
神への疑いが生じ、心に葛藤が生じます。
そういう中で祈りつつ、
神に信頼するように心が変えられていきます。
忍耐は練達を生み出します。
つまり私たちの信仰が鍛えられるのです。
神さまに信頼する心が育てられるのです。
そしてそこに希望が生まれるのです。
→ペトロの手紙一にはこのように書かれています。
今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、
あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、
火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、
イエス・キリストが現れるときには、
称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
→キリスト者も、世間の人と同じように何かあれば思い煩います。
心の平和を失います。
聖書にこうあります。
フィリピ4:6~7
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
ここには思い煩いに対する処方箋があります。
神さまの助けは奇跡が起きるという形だけではありません。
聖書の言葉、神の言葉が、私たちに与えられる神の助け、神の恵みとなります。
私たちは神の言葉に立って生きるという恵みに導かれています。
神さまに導き入れられた今の恵みとは、
神の言葉に従って生きる恵みと言うことができます。
そして私たちはここに立ちます。
「我、ここに立つ」です。
→信仰によって義とされている、これは恵みです。
神さまは、キリスト者を神の前に正しい者と見てくださる、
この恵みの上に立つのがキリスト者です。
神さまと平和の関係の中に置かれていることを信じ、
平安の中に生きる幸いを知っているのがキリスト者です。