2022-01-01から1年間の記事一覧
「信仰」によって各自の自覚に伴う人格形成的な生の活動を意味するなら、いわゆる「宗教」がつねにこの道程に沿うものとは言いがたい。
年末になると思うことがあります。終わりがあること。自分の人生に、そしてこの世界に。
最近、感謝して生活を楽しむことも御心に適うことではないかと考えるようになりました。
神である方が人となり、この世に生まれメシア(救い主)としての働きをします。しかし人々はこの人を信じるどころか死刑宣告をします。死刑宣告を受けたイエスを人々は愚弄します。
キリスト者の実際の生活を考える時、身近な家族こそ、第一の隣人ではないでしょうか。身近な家族だからこそ、自分を愛するように愛することが大切です。
私の内にある問題点とは、自分を第一にする心が心の底にあるということです。私は自分を罪深いと考えます。
神を愛するってどういうことでしょうか。信仰者の神に対する態度として、神をたたえる、神を崇める、神を畏れ敬うなどの表現があります。
自分がガンになったらどうするのか、と考えます。歳をとり、だんだんと考えが手術はしない方向に傾きつつあります。
神はなぜ、イスラエルの民に戒めを与えたのでしょうか。神の戒めは、私たちを幸せにするため、私たちを祝福するためにあると考えます。
キリスト者はなぜ、神の戒めを守るのでしょうか。その理由、根拠は?
主イエスはゲッセマネの園で、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と語られました。主は何を悲しまれたのでしょうか。
実行できないと思っている神の教えに従う歩みに踏み出すのです。一歩踏み出すことを語る時に私が用いるたとえがあります。紹介します。
罪に勝利する、大げさな表現かもしれません。罪に打ち勝つ秘訣です。
Aさんは<赦さなければいけない。でも赦せない>という思いが心の中でぐるぐる回り、辛い日々が続き、どうしようもなくなり、「神さま、赦します」と祈りました。するとどうしたことでしょう・・・
キリスト者はキリストと共に死にましたが、キリストが死者の中から復活したようにキリスト者はキリストと共に生きることになります。
運転免許更新をめぐっての思い煩い。
讃美歌404番(山路越えて)には心惹かれるものがあります。「みちけわしく ゆくてとおし こころざすかたに いつか着くらん」。
信仰には二つの面があります。信じるという個人の決断という面と、賜物という面があります。
罪から解放されるために、罪は敵であることを認識することが大切です。使徒パウロは、私たちが罪を犯さざるを得ないのは、私たちのうちに罪が住んでいるからであると語りました
神の約束は実現すると信じなさい。そうすればその通りになる。キリスト者とは神の約束を信じる者です。
人間は自由意志を与えられています。しかし欲、恐れ、保身、プライド、恨み、怒り、嫉妬などのために人間は罪を犯してしまうことがあります。人は罪を犯さないで生きることはできないと聖書は語ります。
人間には自由意志が与えられています。では人間には自由意志があるので人間は罪を犯さないで生きることができるのでしょうか。
マルコ福音書のディボーションを続けています。先日、14章10~11節を読みました。これを読んで思いめぐらします。
罪からの解放とはどういうことでしょうか。キリスト者というのは、成熟を目指して成長する者であると考えることができます。成熟の過程で、罪からの解放を経験していきます。
月曜日のブログに「毎日単調な日々を過ごしていると、ふと自分は何のために生きているのだろうという思いが心をよぎります」と書きました。新たな思いが来ました。
罪から解放されるために大切なことは、それを本気で願うこと、本気で願っていることを行動で現すことです。反面教師となるのがイスラエルの民です。
エジプトの奴隷状態からの解放を願ったイスラエルの民は、神の大いなる力によって解放されました。私たちはキリストの救いの恵みによって罪の支配から解放されます。聖書のメッセージです。
先日眼科医に行き、眼瞼下垂の症状があることに気づき、紛れもない老化の現実を見る思いがしました。
キリスト者は律法の支配下から、恵みの支配下に生きる場所を変えます。つまり律法の支配の及ばない恵みの支配下に生きるようになったのです。
今日は朝、聖書を読む前にクリスマスの讃美歌を歌いました。心に残る歌詞がありました。