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隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(74)神の戒めの目的

 私たちはなぜ神の戒めを守るのでしょうか。人それぞれの考えがあると思います。聖書から考えてみたいと思います。

 出エジプト記によれば、神はイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放し、彼らを自由に生きることのできる土地へ導きます。途中、シナイ山の麓で神は十戒をイスラエルの民に与えます。そしてイスラエルの民は神の戒めを守りますと誓い、神との契約を結びます。つまりイスラエルの民は神の民として生きることを約束し、神は彼らの神となることを約束します。神の民として生きる証としてイスラエルの民は神の戒めを守ると約束します。

 神はなぜ、イスラエルの民に戒めを与えたのでしょうか。それはイスラエルの民が幸いな歩みをするためであると私は考えます。神の戒めは、私たちを幸せにするため、私たちを祝福するためにあると考えます。

 十戒には、殺すな、盗むな、姦淫するな、嘘をつくなとあります。戦争で人々が殺し合います。窃盗や詐欺のニュースが常に報道されます。だまされて被害に苦しむ人も多いです。姦淫が夫婦関係を壊すことは、芸能人のスキャンダルニュースでよく分かります。現代でも人は当然の顔をして嘘をつきます。国家の大統領さえ嘘をつきます。十戒が守られる世の中だったら、どれほど人々は幸せに暮らせるかと思います。

 神は私たちが幸せになるために戒めを与えられたと考えます。人はどのように生きたらよいのか、神は指針を与えられたと考えます。

 主イエスも人々に教えられました。何のために教えられたのでしょうか。私たちが幸いな歩みをするためだと思います。

 私は思います。神の戒めを守らない人は祝福を失うことになると。神の戒めはそれを守ることの中に祝福があることを。だから私は神の教えを守らなければならないとは考えません。私は神の祝福の中を生きていきたいので、神の戒めを守ることを喜びとします。

 神の戒めを守りたくない人は、守らなくてもよいと私は考えます。その人は神の祝福を失うという結果を身に招くことになります。人は蒔いた種を刈り取ります。ただし最後の審判で、私たちがどのように生きたのか、神さまは問います。喜んで神の戒めを守る者でありたいと私は考えています。

葉の落ちた木 散歩道