私たちは神の戒めをどのように受けとめたらよいのでしょうか。神の戒めは私たちを祝福するものとしてあると私は信じます。戒めそのものが、私たちを祝福に導くのです。
イスラエルの民に与えられた最初の戒めは十戒です。イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放され、自由に生きることのできる土地に向かって旅をしています。シナイ山の麓でイスラエルの民は神と契約を結びます。
神は、私はあなたがたの神となると約束します。イスラエルの民が神の民として生きていきますと約束します。さらに神が与えた戒めを守りますと約束します。
神に造られた人間は、どのように生きるのが幸いなのか分かりません。だから神は十戒を与え、生きる指針を与えました。
私たちの世界を見れば、人をだまし、人の物を盗み、激情に動かされて人を殺し、嘘を言うことが当たり前になされていて、人は平和に安心して生きることができません。十戒がいかにすぐれた戒めであり、私たちを祝福する戒めであるかが分かります。
しかし人は時に感じるのです。神の戒めに従うことへの抵抗を。その抵抗は実は、自分の罪がもたらすものです。人間の罪は神に逆らいます。神の戒めは行うのがむずかしい、無理だなどと人は言いますが、それは己の罪を告白しているようなものです。
神の戒めを守ることは、祝福を受けるための条件ではなく、戒めそのものが祝福なのです。それゆえ、主の戒めを喜ぶことができます。