クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私は律法から解放された(3)

(クリスチャンの成長(66)キリストに結ばれて- 24)

ローマ 7:12
こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく そして善いものなのです。

 律法あるいは神の掟は、祝福の手段として、信仰者に与えられました。掟を守ることの中に祝福があります。

 エジプトの地で奴隷であったイスラエルの民が神の助けによりエジプトから解放され、神が与えられる自由に生きることのできる土地に向かう旅を始めます。旅の途上、シナイ山の麓でイスラエルの民は、神と契約を結び、神から律法を与えられます。律法はさまざまな神の掟の集合体です。その中の代表は、十戒です。

 神がイスラエルの民に律法を与えた目的な何だったのでしょうか。イスラエルの民は、神と関わりながら信仰に生き、他のイスラエルの民と共に生きます。律法が与えられることにより、平和で安心して生きていくことができます。十戒の「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽証をするな」などは、イスラエルの民が安心して生きていけるために法を神が与えられたことになります。

 どの社会にも法があり人々が安心して生きて行くための法律が細かく定められています。人皆が法律を守って生きていくなら、人々は安心して平和に生きていくことができます。基本的に法というのは人々が平和に安心して生きて行くために定められています。法のもとにある人は法を守ることが必要であり、法を守ることによって、平和と安心という利益を得ることができます。

 律法、神の掟もまたそれを守る人に益をもたらします。神が与えた掟なので、それを守ることにより人は神からの祝福を受けると考えることができます。神は掟を通して、祝福を与える方です。神の掟は祝福をもたらす手段とも言えます。

 他方、法を破れば罰が与えられます。どの法を破ったのかによって罰の重さは異なります。罰の存在は、人々に法を守らせる力となります。聖書にも神の戒めに背いた人に神の怒りが下るという出来事がいくつも書かれています。すると人は罰を恐れ、神の掟を守らなければならないと考えるようになります。そこから神の民にとって、神の掟を守ることは義務だという考えが生じます。そして神の掟は守るべきもの、守らなければならないものという受けとめが生じます。

 このように考えてくると、神の掟は、守る者に祝福をもたらすことが忘れられていきます。神の掟は守るべきもの、神の掟を守ることは信仰者の義務と考えるようになると、ひそかに神の掟に対する反発心が信仰者の心に根づくということが起きるのでないかと危惧します。

 また私たちは子どもの頃、たとえば「お母さんの言うことを聞きなさい。聞けば、おやつをあげるから」などと言われる経験をしています。すると神の教えを守れば、神は何かご褒美をくれるのではないかと考えたりします。神の教えを守ることは祝福を受ける条件になってしまいます。すると神の掟は守らなければならない、守らなければ、祝福を受けられないと考えてしまいます。

 神の戒めは、それを守ることが祝福をもたらすと信じることが大切です。神は祝福を私たちに与えるために掟を与えられたのです。

 新約聖書にも様々な教え、戒めがあります。これらの教え・戒めも、それを守ることに祝福があると理解します。このように教えを受けとめることはとても大切だと思います。

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サルビア・レウカンサ 馬見丘陵公園にて