クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

律法からの自由(3)


 私たちは信仰によって救われます。信仰によって救われるとの教えは言い換えると、救いを考える上では、律法を守る必要はないとの教えです。私たちは律法を守らなくてはならないと考え、苦しんでいる人がいたら、「私たちには律法から解放されています、律法からの自由があります」とお伝えします。律法を守らずともあなたは救われているんです。救われていることを喜びましょう。律法からの解放をたっぷり味わいましょう!


 その上で、私たちが信仰に生きるなら、律法、神さまの教えを守って生きることになります。神さまを信じていながら神さまの教えを守らないなんておかしいです。この時大切なことは、喜んで、進んで、自由な気持ちから神さまの教えに従うことです。「守らなければならない」という動機で守るのではなく、喜んで自主的に守ろうとすることです。いやいやながら守るのではありません。信仰者として生きるとは、喜んで自ら進んで神の教えを守る人に「なる」ことです。ここに信仰者の成長があります。信仰者の成長は生涯にわたる成長です。この「なる」は神さまの助け、聖霊の助けによります。自分の力によるのではありません。

「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」(歴代誌下16章9節)。

 自分のことしか考えなかった人が信仰者となり、神さまの心を自分の心とするようになる、これが信仰者の成長です。

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(コリント二 3章18節)。

 主と同じ姿に造りかえられていく、これが信仰者の成長です。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。

キリストと一つになる、これが信仰者の成長です。

「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」(ヨハネ一5:3))。

 自分だけを愛している人が神を愛するようになる、これが信仰者の成長です。


 引用した聖書はどれも、信仰者が喜んで、進んで、神さまの教え、戒めを守ろうとする人であることを示しています。信仰者は常に信仰の成長を目指しています。



ヒメツルソバシロツメクサのような花の形。


 雑草として見向きもされません。でも神さまが造られた花。神さまが私たちを個性あるものとして、世界中でオンリーワンの存在として造られたように、雑草と言われようとも、名前があります。個性があります。散歩で見かけた花の名前を調べ、名前を確認できることはうれしいことです。この花の存在を私が認めるように、神さまは私のことを認めてくださるし、神さまが私を認めてくださるので、私も、名前を調べ、雑草と十把一絡げにするのではなく、個性あるその存在を認めます。