素朴な質問をするなら、神の子ってなに? 人間を救うのはなぜ神の子? 救い主は、神の御子だというのです。どういうことなのかと思案します。
目が遮られるとイエスのことが分からなくなり、目が開くと聖書のことが分かるようになります。目を開くのはイエスです。
主を賛美することを喜ぶ、それは私のうちに主イエスが生きておられるからではないかと考えるこの頃です。
疑う心に対する対処法。私の場合。信仰者としてのアイデンティティー。聖書の真理性。
この世を去ってキリストと共にいたいと熱望するパウロ。キリストが私のうちに生きておられるから私は願いを共有できる。
「約束された福音」と出しての説教。聖書はロマ書1章1~7節。
自分はなぜ、キリストに似た者となることを目指しているのか、目指してきたのか、それは私の内にイエスが生きておられるからだと理解するようになりました。
信仰者としての自分の歩みを思うとき、自分の内にイエスがおられると自覚することは大切なことと考えるようになりました。
私が神の言葉によって生きているとは、主イエスが私の内におられ、私の内に生きておられるということです。
イエスが復活したことを祝うイースタ。イエスの復活を信じるとは、主イエスが今、生きておられるという現実に自分が生きること。
私の心にスキがあるので、サタンは疑う心を、私の心の中に送ったと考えます。信仰者には悪魔との戦いがあります。
キリストの復活は死者の復活の初穂。「お前も復活するんだぞ。信じるのか」と迫ってくる者がありました。
パウロはその身に刺が与えられ、それは彼の弱さでした。それはサタンが置く歌使いでした。
アリマタヤのヨセフはイエス様の遺体を引き取り墓に納めました。イエスの死を思って導かれた祈り。
今日は、妻の長兄の葬儀に名古屋まで行ってきました。明日は我が身か。
「恵みの高き嶺(ね)」という聖歌を youtube で聞いたことがきっかけでした。
イエスの弟子トマスのことを誤解していたことに気づきました。私はトマスと違って信じる心と疑う心が同居しています。
死に際し、自分の霊を神にゆだねるのは、すべてのクリスチャンに共通の思い、願いであると思います。イエスに倣い自分の霊を神にゆだねて死にます。
朝、テレビを見ていたら、大谷翔平選手の会見が開かれました。大谷選手の心を思います。
イエスと共に十字架につけられた犯罪人。二人のイエスに対する態度は対照的。
死に至るまで、十字架の死に至るまで、神に従順に生きるイエスを見る。十字架の死に至るまで、そこには人々からの侮辱を受けるという状況もあるのにイエスはなお神に従順に歩まれた。
イエスは自分を死に追いやる最高法院で、堂々と証しをします。
若きらが 親に先立ち 去(い)ぬる世を 幾世し積まば 国は栄えむ 心に響きます。
礼拝説教 古い自分は十字架に 原稿と録音です。
イエスは苦しみもだえて祈られた。その姿に思いを馳せる。
主の晩餐において、キリストは新しい契約をもたらす方であると語られました。信仰者が律法を満たすようになるという約束。
新聞の記事で見た、つらい中にある人たちの言葉。
13年前の大震災を思い、最近の出来事をも思い、時に複雑な思いに導かれます。
今年の元旦も能登半島地震。自分の歩む道が突然閉ざされる、そんな不安に追い込まれる不安があります。
主イエスは「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいとわたしは切に願っていた」と弟子たちに語りました。主の気持ちは何だったのか。