第2コリント5:17 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」。 キリスト者は新しく生まれた存在です。
r礼拝説教の紹介。 聖書 ローマの信徒への手紙5章1~11節 説教 神との平和を与えられて
教会に起きる牧師交代。牧師交代にどう対処するのか。私の考えを書いてみました。
使徒パウロは、深い悲しみ、絶え間ない痛みがあるとロマ書の9章で書いています。パウロの思いを黙想しました。
私を生かした聖句。 コリント二 3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
主イエスが語られた「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」との言葉が何と適切な言葉であることか、と思わされる昨今の世界の現実です。
『いつかは知らねど』(聖歌)を聞き、ひとつの出会いを与えられました。信仰を励まされるうれしい出会いでした。
新しい年を迎え、聖書から聞いた言葉は、神との間の平和。平和は、信仰者に対する神の約束です。
自分の人生を感謝を持って終えることができたらうれしいです。自分の正直になって、どんな風に感謝できるのか。人生を振り返っています。
「恵みの国に生きる」と題して≪律法≫の支配から自由になった経験の証しです。
「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」。私の祈りでもあります。」
死を重荷と考えたらどうなるのか。思いを追うている者はわたしのもとにきなさい。休ませてあげようとイエスは言われます。
私を生かした聖句。 フィリピ 4:19 わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
今回の「私を生かした聖句」はロマ書14章8節です。 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」。
昨日、葬儀に出席しました。そして今日、あらためて一日一日を妻と共に大切に生きようと思いました。
昨日、夕方5時過ぎから奈良高畑教会では、JR奈良駅前でクリスマスソングを歌いました。教会の聖歌隊を中心に教会員の方も参加しての賛美でした。
空しさを覚えていた私にピッタリの聖書の言葉、それがロマ書12章1節の言葉でした。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」。
老いの中にあって、過去を振り返るのも時間の過ごし方としていいのではと思うようになりました。。それで、私の信仰を支えた聖句を振り返りたいと思いました。
有名人の訃報が相継ぎました。自分の死に備えことの大切さを感じます。
信仰の父と呼ばれたアブラハムの信仰の特徴はヘブライ人への手紙11章1節に書かれています。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。
『輝く日を仰ぐとき』という讃美歌があります。5番はキリストの再臨について歌われます。この歌詞は私を励ましてくれます。
最後の審判を考えるとき、キリスト者として真剣に生きるべきことを教えられます。真剣に生きることを考えるとき、最後の審判の教えも受け入れ信じることができるようになるように思います。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
私が礼拝出席している教会では昨日、一本のろうそくに火が灯されました。アドベントと呼ばれる時期を過ごすことになりました。
最後の審判は、この世の終わりの出来事ですが、聖書によれば、神による創造という始まりがあります。この創造を抜きに終わりを考えることはできないと考えます。
信仰の父アブラハムは天の故郷を熱望していました。そこで私も。
聖書は最後の審判について語ります。現代人としては最後の審判を信じるのは簡単ではありません。これを信じることにチャレンジします。
老いを生きる今の私の小さな目標の紹介。
キリストが世の終わりに来られるとき、キリスト者は復活し、御子キリストの似姿に変えられます。
聖書は驚くべきことを語ります。イエスがいつの日か分かりませんが、この世においでになり、この世に終わりが来ると語ります。これをいかにして信じるのか。