肉に従う人の問題点は、罪に売り渡されていること、罪の奴隷であることです。
イエスは憐れみ深い方です。「憐れんでください」と言ってイエスに近づく人を憐れみ、その願いを聞いてくださいます。
肉に従って生きる人の問題点は、死に至る実を結ぶことにあります。一時的な満足を求めて生きる虚しさ、そして終わりの日に受ける神の裁き。
ウクライナとガザ。平和が遠いです。そんな中で考えること。多くの人が祈っているのに神は何をしているのか、罪は人の命を奪う、イエス・キリストの十字架こそ救い、
「肉」という言葉を定義してみたいと思います。「肉」とは、生まれながらの人間のもつ性質、さらに人間が成長する中で身につけてきた考え方、生き方を含む性質と定義したいと思います。
肉に従って歩む者は、肉に属することを考えます。富、宝、名誉、賞賛、力(権力)、地位、豊かな生活、ぜいたくな生活を求めます。自己満足を求めて生きる人です。
クリスチャンの敬老会に招かれて祝辞を述べることになりました。80歳を越える方たちに祝辞を述べるのです。何を語ったらいいのかと思案しました。
使徒パウロによると人間は二種類に分けられるようです。「肉に従って歩む人」と「霊に従って歩む人」です。肉に従って歩む人について考えます。
youtube で賛美を聞きながら作業をしていると、ある曲が始まるやその歌詞に心が引っ張られました。心が乗っ取られたかのようにその曲に心を向けました。
時々、何とも言えない重苦しい気持ちで目覚めるときがあります。私の心に死が影を落としているのです。この重苦しい気持ちは、私の心を聖書に向けさせます。
人が罪を犯す第三の理由は弱さです。弱さを隠すために、自分を守ろうとし、嘘をついたり、責任喧嘩したり、罪を犯します。
頭の中にあるメロディーが流れてきました。讃美歌のメロディーだと思いました。後で探すために、メロディーをメモしました。その歌詞は、神からのメッセージでした。
プライド、これもまた人に罪を犯させる原因の一つです。自分の尊厳を傷つけられると人は他者に対して攻撃的になります。
人間はなぜ罪を犯すのか。一つの理由は人間は何事も思い通りにしたいという欲があるからです。
「天から啓示される神の怒り」を説教題とする説教です。神の怒りは不信心と不義に対して現れると教えられます。
「来たらせたまえ 主よみ国を」という讃美歌の言葉が心に響いてきました。現代世界の混乱を思うとき、神の国の到来を待ち望む思いが湧いてきます。
キリスト者が生まれ変わったとは、人格としての「私」が生まれ変わったことを意味します。神なしに生きていた「私」が、神を信じて生きる「私」になった。
人間は霊と心(魂)と体からできていると聖書は教えます。アダムが罪を犯したおかげで人間の霊は死に、キリストを信じて洗礼を受けるとき、霊は再生します。
人間は霊と心と体からできています。人間の霊について考えます。霊が生きているか、死んでいるのか。それは何を意味しているのか。
日々の生活、単調な日々の繰り返しのようん生活の中でも、課題をもって生きるなら神の導きに生きることができると信じます。
決断に迷うとき、神の導きを求めて祈ったり聖書を読んだりします。神さまは聖書を通して導きを与えてくださる、私はそう信じています。
神は私たちの思いを超えて導かれます。神に呼びかけられ、新しい人生へと導かれる人は沢山います。わたしも、あなたも。
復活の主が共にいてくださる。これは聖書の約束です。生くるにも死ぬにも主を思う揺るがぬ心を、神よ与えてください。
福音は救いをもたらす神の力です。神の力はどのような救いを、どのようにして実現に至らせるのでしょうか。聖書に聞きます。
老いを生きるとは、御国を目指す旅路を生きることを意識することと考えています。一日分の歩みを意識するために、讃美歌と聖書通読を日課とします。
復活の主イエス・キリストとどのように関わって生きるのか。復活の主の御心を大切にすることが一つの答えです。信仰は神との交わりだからです。
「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」、「信仰の薄い者よ。なぜ、疑ったのか」とイエスは言われます。恐れや疑いがあっても惑わされず信じる歩みをしたい。
復活の主とキリスト者の関わりで一番大切なことは、ロマ書6章に書かれています。キリストの死と復活が自分の出来事となります。
私たちと共にいてくださる復活の主イエス・キリスト。この方とどのように関わりに生きるのか。復活の主は私のうちに生きておられます。
復活の主キリスト派わたしと共にいてくださいます。私の内におられるキリスト、それは神の言葉です。神の言葉によって生きる、それが復活の主と共に生きることです。