2023-03-01から1ヶ月間の記事一覧
老人とのしての私は明日死ぬことになっても当然だという思いを持ちながら、しかしまだその時ではないとの思いを抱いています。・・・
聖書を読むと、神を信じて生きるとは神との交わりに生きることであると教えられます。
人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。 それにもまさる喜びをわたしの心にお与えください。
今回は3番目、罪で汚れた心を清めるという対策。洗礼を受けたときに、私たちは罪から清められました。
今回は2番目、罪を犯すよう働きかける力に対する対策です。神さまは私たちを愛し、しっかりした対策を備えてくださっています。
神によって自由な存在として造られた人間は、罪に傾く心を持っています。それゆえ、何かあれば罪を犯してしまうのが人間です。その人間を罪から救うために神は、イエス・キリストを信じる者を新しく生まれさせます。
神の愛は、私たちを罪から救う愛です。神の愛ですから、罪から私たちを完璧に救います。では罪からの救いとはどのようなものでしょうか。
今は平凡な毎日を過ごすだけとなりました。何か特別な生きる目的があるわけではなく、生活することが生きることとなりました。
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。
私自身は、ユーチューブを通して、賛美との出会いがあります。ユーチューブがなければ出会わないであろう賛美の歌との出会いは、うれしいです。
聖書の神は、信仰者を導く神です。愛をもって導かれる神です。
神は人間の罪を贖うために、御子を惜しまずにいけにえとしました。しかもその御子、人となった御子を死に追いやることを敢えてするほどの神の愛が示されました。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
4月から無牧の教会の礼拝説教奉仕が始まることになりました。福音を説教し、教会員の皆さんを励ますことが私に与えられた使命と受けとめ、祈りつつ、聖霊の導きを求めつつ、説教奉仕をする予定です。
キリスト派どのように私たちを愛してくださっているのか。
キリスト派私の内に住んで下さいます。御言葉として私の内に。
一昨日の日曜日、教会で聖餐式が行われました。パンとぶどう酒をいただき、主イエスが私の救いのために命を献げてくださったことを思い起こします。そして主イエスが、私を愛し、命を献げてくださったことを覚えます。
神に喜ばれる信仰者とは、救いの恵みを受け取って生きる人です。
先週は詩編116編のデボーションをしました。この詩篇の15節の言葉が素敵です。「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価(あたい)高い」。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。かみのあいは、之よりもさらに大きい愛であると教えられます。
御子は人類の罪を背負い、神の裁きを受けました。つまり御子は神に見捨てられました。なぜ、このような歩みを御子はされたのでしょうか。答えはただ一つ。御子も人間を愛し、人間の救いを願ったからです。
御子は御父の提案を受け入れ、人となり地上の歩みをすることを受け入れます。神であるのに神の身分に固執せず、人となるのです。そこには御子の愛があります。