昨日のブログで「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」(詩編116:15)を取り上げ、信仰者の人生は神の目に喜ばれるものであると解釈してよいのではと書きました。
ふと思いました。自分の信仰者としての歩みを考えると自分の人生が神の目に喜ばれるものであるとは思えないと考える人がいるのではないかと。
私は、自分の努力によって神に喜ばれる者になれるという考え方は間違っていると思います。たとえキリスト者になっても自分の力によってよいキリスト者になろうとする考えは間違っていると思います。だから、そのような考え方に基づき、自分は神の目に喜ばれる者にはなれていないと考えるのも間違っていると思います。
使徒パウロは、その意味では、信仰者としての自分の歩み、自分の努力を誇る人でした。しかし復活のキリストに出会ってパウロは変わりました。人間的な誇りはくずに等しいとパウロは語りました。
大事なのは、神さまが与えてくださる救いの恵みを受け取ることです。これを十分受けとって生きるキリスト者を神さまは喜ばれると私は信じます。イエス・キリストによる救いの恵みとは何でしょうか。
- キリスト者は賜物として聖霊を受けました。聖霊なる神が信仰者のうちに住み始めて下さいました(使徒言行録2章38節)。
- 聖霊が住んで下さることによって信仰者は新しく生まれた者になりました(ヨハネ3章5節、コリント二5章17節)。
- キリスト者はキリストに結ばれた者とされ、神の子とされました(ガラテヤ3章26節、ローマ8章14~15節)。
- またキリストを信じる者を神は義と認めて下さり、神の目に義なる者とされました。キリスト者になっても罪を犯しますが、神さまの赦しを受けることができ、常に義なる者として神の前に生きる者とされました(ローマ3章22節、5章1節、エフェソ1章4節)。
- 聖霊に導かれ、キリスト者は罪に打ち勝って生きていくことができるようになりました(ローマ6章7,14節)。
以上が、信仰者としての成長に関係してイエス・キリストによって与えられる救いの恵みと私が考えるものです。もちろん、聖書に書かれていることです。この恵みを受け取って生きる人こそ神に喜ばれる人であると私は信じています。