クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

和歌山県G教会での9月23日の説教です。
録音は、右のリンク隠退牧師holalaの説教サイトで聞くことができます。
 
聖書 ローマ 5:1~5
説教 義とされた恵みの深み
2018/9/23

→信仰によって義とされるとの教えは、キリスト者なら誰でも知っている教えです。
ある意味、初歩的な教えかもしれません。
ひと言で言えば、「罪赦されて義とされ、永遠の命をいただくことができる」。
このように私たちは聞かされてきたのではないでしょうか。
長年イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを宣べ伝えてきたパウロは、
この信仰によって義とされる教えについて、
深く考えています。
初歩的な教えかもしれません。
しかしこの教えには、広がりと深みを持つ教えなのです。
信仰生活の大黒柱ともいうべき教えであり、
私たちの信仰の歩みを導く重要な教えです。
今日は聖書から、四つのことを聞いてみたいと思います。
四つのことを恵みの言葉として聞きたいと思います。

→1節を読みます。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから」。
パウロはこれまで語ってきたことをまとめて、「このように、わたしたちは信仰によって義とされた」と語り、
義とされたことが何を意味しているのかを続いて語ります。
「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」と書かれています。
私たちは、義とされた結果として、神さまとの間に平和を得ているというのです。
神との間に平和を得ている、これが信仰によって義とされることから導き出される第一のメッセージです。
以前は罪人であった私たちは、信仰によって義とされ、この私たちの罪を神は赦し、
私たちを義しい人間と見てくださり、私たちとの間に平和の関係を与えてくださいます。

パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙には、
「わたしたちはキリストを着ている」(ガラテヤ3:27)とあります。
これはひとつのたとえですが、真理をわかりやすく伝えています。
キリストを着ている私たちを神さまがみれば、
わたしたちの罪で汚れた姿は見えず、
神さまは、私たちを正しい者とご覧になります。

→罪を犯していた人間は、罪を赦され、義とされ、
神さまと和解させていただきました。
神さまとの間に平和を与えられたのです。神さまとの間に平和を与えられる、これが信仰によって義とされた結果として与えられる恵みです。
そして神さまとの交わりに生きることができるようにされました。

→この平和は、決して壊されることのない平和です。
神さまの側から、この平和を壊すことはありません。
なぜなら、神さまはイエス・キリストを償いのいけにえとして差し出したのであり、
救いのみ手を差し伸べられました。
そして今もこの手を差し伸べ続けておられます。
決して御手を引っ込めることはなさいません。
なぜならすべての人が救われるのが神さまの御心だからです。

→では、この平和を得ているとは具体的にどういうことなのでしょうか。
私たちは、罪の赦しをいただいたので、罪を責められることはありません。
罪を責められないので、罪に対する神の怒りを受けることはありません。
罪を犯しても、罪の赦しを求めれば赦しを受けることができます。
私たちには平安があります。罰が当たることなど恐れる必要がありません。

→そして神さまは、恵みの神として信じる者と関わってくださいます。
全能の恵みの神が私たちとか変わってくださる以上、
私たちは神の守りの中におかれていることを信じることができます。
何が起きても私たちは安心であり、平安です。
信仰者の心の底には、何ものにも妨げられない平安があります。
この平安を福音書の中に見いだすことができます。

→ある時イエス様は弟子たちと舟に乗っていました。
ガリラヤ湖を横断しようとしていたのです。
するとまもなくしてイエス様は寝てしまいました。
やがて突風が吹きつづけます。
舟は揺れ、水が舟に入り、沈みそうになりました。
恐れた弟子たちはイエス様を起こし、何とかしてくださいとうろたえます。
しかしイエス様は「信仰の薄い者たちよ」と弟子たちを咎め
湖と風に向かって「静まれ」とお命じになりました。
すると風は止み、湖は静かになりました。
エス様が共におられれば何も心配する必要はないのです。

 



→2節。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」とあります
口語訳聖書では、「今立っているこの恵みに信仰によって導かれ」とあります。
「今立っているこの恵み」とあります。
私たちは恵みの上に立っている、
これが信仰によって義とされるとの教えから導き出される第二のメッセージです。
恵みという大地の上に私たちは導き入れられ、
そこに立ち続けているというのです。
イスラエルの民がエジプトで奴隷状態として苦しい生活をしていましたが、
神さまは彼らをエジプトから救い出し、
彼らを自由に生きることのできる土地へと導くと約束され、
その約束を実現されました。
イスラエルの民はそこにイスラエルの国を建設しました。
彼らは約束された土地に導かれましたが、
私たちは恵みの大地に導かれたということができます。

→信仰者にとって生きるとは、恵みという大地の上に生きることなのです。
信仰者は、義とされた結果、恵みという大地の上を生きることができるようになりました。
パウロはローマの信徒への手紙の6章では、
「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」と語っています。
これはあたかも、恵みという太陽に照らされて生きることを語っているように思えます。
恵みという太陽に照らされて生きるのも、
恵みという大地に立って生きるのも同じことです。
恵みの太陽に照らされ、恵みの大地に生きる、それが義とされた人の歩みだというのです。

→私たちは神の恵みに囲まれて生きているのです。
神さまから義と認められる、これも恵みですね。
神との間の平和を与えられる、これも恵みです。
そして神さまが与えてくださる恵みは豊かなのです。

→このローマの信徒への手紙は、神の恵みを更に語っていきます。
6章では、洗礼を受けた人はキリストに結ばれ、
罪に支配されていた古い人が死に、
キリストに結ばれて新しい人に生まれ、神の子とされると書かれています。
新しい人、神の子に生まれ変わる、これは恵みです。
8章には、聖霊の導きにより、私たちは神の教えを守ることのできる人に変えられると書かれています。
さらには、神を愛する者たちにとっては、万事が益となるという恵みも語られています。
私たちの身に様々なことが起きますが、それらは何一つ無駄なことはなく、
わたしたちにとって良い結果をもたらすというのです。
さらに神さまは、私たちを愛しておられます。
そしてこの神の愛から私たちを引き離すことのできるものはなにもないというのです。
私たちは神の愛の中を歩むことが赦されています。
これらの恵みを信じていきることができる、幸いなことです。

→2節の後半、
私たちは「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」とあります。
信仰によって義とされた私たちは、希望と誇りを持つことができる、
これが第三ののメッセージです。
神の栄光にあずかる希望を抱き、この希望を誇りにするというのです。
希望と誇りです。
しかし「神の栄光にあずかる希望」、どういうことでしょうか。

→3章23節に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなって」とあります。
聖書によれば、人は神の似姿に造られました。
人は神の似姿に造られた、これは聖書が明らかにする真理です。
神はご自身に似せて人を造られました。
人は神を映し出す存在なのです。
人間らしさとは神を映し出すことにあります。
そこに人間の誉れ、栄光があります。
しかし人は罪を犯し、神を映し出すことができなくなりました。
神に背く姿を人間はさらすようになりました。
神の栄光を失ってしまったのです。

→人間は罪を犯し、神の栄光よりも、自分の栄光を求めるようになりました。
自分の幸せを追求し、神のことは考えず、神の敵となりました。
しかし信仰によって義とされ、神の子とされた人間は、
神の恵みによって生きるものとされました。
信仰者は、再び神を映し出す者となることを目指します。
神の似姿として生きる、これが信仰者の歩みです。
この世界には、神の似姿として神を映して生きた人がたった一人います。
神の子、イエス・キリストです。
ですから信仰者の歩みの本質はキリストを目指すところにあります。
パウロはコリントの第二の手紙3章で
「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」と書いています。
あるいはヨハネはその手紙の中で、
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(1Jn3:2)。

→そしてパウロは信仰者の希望と誇りを語ります。
キリスト者は神の似姿を回復して生きるのです。
そして神の国に迎えられるとき、
完全に神の似姿に復活するという希望をパウロは語ります。
神さまに与えられた栄光の姿に復活するというのです。
私たちにとって死んで天国に行くとは、キリストに似た者となり、
神の似姿を示すまことの人間として復活するということです。
神の姿を映し出す栄光をいただく、それが信仰者の希望であり、
この希望が、信仰者の誇りだというのです。
皆さんはどんな誇りを持っておられるのでしょうか。

→3節。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」。
義とされた結果、信仰者は苦難をも誇りとするようになる、これが第四のメッセージです。信仰によって義とされた人は、苦難をも誇りとすることです。
これにはびっくりします。
いきなり、キリスト者は苦難を誇りとするというのです。
「苦難を誇りとしましょう」と言われて皆さん、
「アーメン」とお答えになることができるでしょうか。
「神の栄光にあずかる希望を語り終えると、
「そればかりでなく」と続けます。
パウロは信仰者の誇りを紹介しているわけですが、
いきなり苦難を誇るというのです。
どう理解したらよいのでしょうか。

パウロは何年も信仰に生きた人です。
苦労して、苦難に遭いながらイエス・キリストを宣べ伝えた人です。
信仰によって義とされるという教えが何を意味しているのか、
深く味わい知っています。
信仰によって義とされるという教えは、
別な見方をすれば、あなたは救われている、神はあなたを救う神だということを伝えています。
そのことを証明する一つの例が、苦難です。

→信仰に入れば、苦難に遭うことはないとは、聖書は教えていません。
苦難、試練には、私たちは直面することがあります。
それは決して、神が私たちを見放したことでもなく、
見捨てたことでもなく、私たちを罰しているということではありません。
苦難の時、私たちは自分を顧みるかもしれませんが、
罰が当たるというようなことではなく、神の怒りでもありません。

→苦難、試練は、信仰者にとって益となるものです。
そのことを「私たちは知っているのです」とこの3節でパウロは語ります。
旧約聖書詩編にも
「苦しみにあったことは私にとって幸せでした」(詩編119:71)と告白する詩人の言葉があります。
まず苦難は忍耐を生みます。
信仰者は神によって救われ、神に愛されているので、
苦難の中にあっても、神が信仰者を見捨てたり、
見放したりすることはないと信仰者は信じることができます。
神さまは、すべてのことを益としてくださることを信じることができます。
そのことを知るゆえに、信仰者は忍耐することができます。
ただ苦しさを我慢するというのではなく、
神が解決に導いてくださるその日の到来を待ち望んで忍耐するのです。

→忍耐することによって練達が生まれます。
「練達」という言葉は日本語の辞書を引くと「熟練」を意味すると説明されています。
「練達」と訳されたギリシャ語は、「試されて本物とみなされる」という意味です。
このことを語る聖書の言葉を紹介します。
ペトロの手紙一1章6節以降を読みます。
「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、
あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、
火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、
イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。
試練の中にあって、希望を持って忍耐することを通して、信仰が鍛えられ、
本物と見なされるというのです。
そのことによって、いっそう「希望」が確かなものとされていきます。
そのことが「練達は希望を生む」と書かれています。

→そして5節。「希望はわたしたちを欺くことはありません」。
欺かれる、それは恥を受けるということです。
希望したのに裏切られ、恥をかくということです。
しかし、私たちは、恥を受けることがないというのです。
それは、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と理由が示されています。
神の愛とは、神さまが私たちを愛してくださる愛です。
神さまが私たちを愛してくださっているとの確信を
聖霊が私たちの心に注いでくださいます。
すると苦難の中にあって、どのような結果になったとしても、
私たちは、それが神さまの導きだと確信できるということだと思います。
神さまの導きは、わたしたちの願い通りになるとは限りません。
神さまの導きは、神さまが愛の神なので、私たちにとって最善の導きと私たちは信じます。
聖霊がそのように導いてくださいます。

→私たちは漠然と神の愛を感じるのではありません。
8節を見ます。
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。
イエス・キリストの十字架の死、そこに神の愛が現れています。
キリストの十字架を思いめぐらすとき、
聖霊が神の愛を私たちの心に注いでくださいます。
信仰によって義とされるとは、神との間に平和を得ることです。
恵みという太陽に照らされ、恵みという大地に立って生きることです。
終わりの日にキリストの似姿に変えられるという希望を誇りとすることです。
そして苦難をも誇りとすることです。
義とされることがもつ豊かさ、どうでしょうか。