死の受容
有名人の訃報が相継ぎました。自分の死に備えことの大切さを感じます。
訃報が届きました。この世にあって抱く死のイメージ、キリスト者として抱く死後の希望のイメージ。
『もしも一年後、この世にいないとしたら』(清水研著 文響社)を読み終わりました。自分の寿命があと一年なら何をするのか。
『もしも一年後、この世にいないとしたら』(清水研著 文響舎社)を最近読みました。
老いを生きる中で、聖書の言葉や讃美歌が心に新鮮に響くことがあります。今回葬儀に参加し、讃美歌が心に響きました。
先日、先輩牧師の訃報を聞きました。ふと思いが与えられ、聖書を開きました。
アリマタヤのヨセフはイエス様の遺体を引き取り墓に納めました。イエスの死を思って導かれた祈り。
先週は詩編116編のデボーションをしました。この詩篇の15節の言葉が素敵です。「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価(あたい)高い」。
今週は詩編90編を読んでいます。以前から黙想したいと思っていた詩編です。
自分は死んだら無になると考えて、平然と日々を生きることができる、そんな人がいることをあらためて知り、人間って色んな人がいることを思いました。
小坂忠さんの訃報を聞いて心に去来した思いを書きました。
いつ死んでもいいという心境に近づきました。といっても死期が近くなったわけではありません。
「いつ死んでもいい」と題して3回目の思いを書きました。
キリストによって豊かにされた私の6回目は<永遠を思う心>です。永遠を思う心が湧き上がってきたのは、年をとってからです。
「一人称」の死へ、というコラムを新聞で読みました。死を前にしての苦痛にどう対処するのか。
キリストの復活を語る時、ぱうろは、死が滅ぼされると語ります。どういうことでしょうか
アブラハムは行き先を知らずして故郷を後にして信仰の人生に旅立ちました。彼は天の故郷を目指していました。
いつ死んでもいいという心境になれたみたいです。どうしてそうなれた?
讃美歌を原詩で歌ことには味わい深いものがあります。youtubeで英語の讃美歌を歌うのは楽しいです。
新聞記事から、死の受けとめ方画人によって違うことをあらためて知りました。
死に備えることを教えるルターの文章との出会い
私の終活をめぐっての思い。いの手与えられた聖句。
イエス様が弟子たちに「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない。後でついて来ることになる」と言われました。このせいくをおもいめぐらしました。
奈良高畑教会が年一回クリスマスの時に発行する機関誌『羊群』に寄稿した文章です。テーマは「喜んで死ぬということ」。
信徒の忘れられない言葉 いつ死んでもいいです。
老いを生きる私は、死ぬ準備をしていますと、近況を語りました。3つのことを私は心がけています。
人は死んだらどこへ行くのでしょうか。イエス様のもとに行くと私は信じています。
主イエスがじゅうじかでなくなられました。それゆえ、私は自分が死ぬことを受け入れます。しゅにならうことをたいせつにしていますので。
体が不調なときは、おもいがけないおもいがしのびこんできます。「しんだららくだろうな」などと。これも歳をとったからです。
人は死んだらどこへ行くのでしょうか。使徒パウロはこの世を去ってキリストと共にいたいと語り、イエス様は十字架の上で一緒に十字架につけられた人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と語られました。