クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

自分の死をどう考える?

 今朝の新聞にコロナの感染を防ぐために病院で見舞いが行えなくなったので、自宅で最後を迎える方がいると書かれていました。家族に見送られずに病院で亡くなるより自宅での死を望まれるわけです。一人の女性の記事が印象に残りました。

 彼女の父はガンで入院をしていました。ある日病院から「明日から面会禁止」ですと告げられました。2週間後、父の容体が急変し、病院から連絡があり、見舞うことが許されました。幸い、持ち直し、今はスマホを使ってビデオ電話で話をしているとのこと。その彼女がこう述懐しているのです。

「父には死への不安や恐怖もあるはず。先が見えない中で電話ぐらいしかできないのがつらい。わがままかも知れないけど会いたい」。 

  これを読んで、私はあらためて死の受けとめかたが人それぞれであると思いました。新聞に登場したこの女性は、死の不安、恐怖は、死に臨んでやってくるものと受けとめているようです。死の不安・恐怖というものが人間にあることを彼女は知っています。彼女にとっては自分の死は遠い先のことです。死が問題になるのは、自分の死が近づいたときなのだと思います。次はキリスト教の伝道パンフレットに書かれていたある神学者の文章です。

私は中学生時代に48歳の若さで父が病死したこともあって、死を恐れる気持ちを持って青少年の時期を過ごしました。教会を初めて訪ねたのは、高校生の頃でしたが、その動機としてもこの問題があって、言葉で明確に言い表してというのではありませんでしたがいつも心の底に「死より確かなものはないのか」という問いを抱えていました。

 「死」というものがあると知ったとき、死を恐れる思いが心に湧いてきて、これを何とか解決したいと考える人もいます。そうしないと死に臨んだとき、大変です。「死ぬのが怖い、怖い」と叫びながら死を迎えるというのは絶望ですから。

 世の人たちは自分の死をどのように考え、死を迎えているのかと思います。これは微妙なことなので、なかなか人にどんな考えでいるのか私は聞くことができません。これから書くことは私の想像です。

 人はある程度年を取ると、生きることに疲れを覚え、死を受け入れやすくなるのだと思います。死んだ後どうなるのか分からなくても、みんな死んでいくのだから、まあ何とかなるだろうと思うのです。死ぬときの苦しみだけは避けたいと願います。あとは運命と割り切り死を受け入れるのではないかと思います。信仰を持っている人は明確な希望に生きていると思います。

 私は、幼い頃祖母が亡くなった結果、死を恐れるようになり、これが信仰を求める結果となりました。また神さまは牧師へと召しだし、死を見据えて信仰に生きる道を探求させてくださいました。感謝です。死を考えることは生きることを考えることになると思っています。

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緑が美しい季節の興福寺