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隠退牧師 holala によるブログ

わたしは世の光(5)闇を好み、光を憎む人

ヨハネ 8:12
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。

 イエスは世の光としておいでになり、世を照らしました。人々はイエスに対してどのような態度を取ったのでしょうか。

ヨハネ 3:19
光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。

 人々は、その行いが悪いので、光よりも闇を好んだとあります。光を歓迎しませんでした。その理由は、人々はその行いが悪いから、とあります。行いが悪いとは、法律に反するような悪事を行うこと、あるいは道徳的に見て悪いと思われる行いをすることだけを意味していません。

ミカ  6:8
人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。

 ミカ書の言葉は、何が善であるかを語っています。善の基本は神と共に歩むことです。悪い行いとは、神と共に歩むことをしないことから生まれます。神を信じないことから生まれます。聖書はそれを罪と呼びます。神を信じない人は基本的に自分第一に歩みます。自己中心的に歩みます。そこから罪と呼ばれるさまざまな行為が生まれます。

 イエスは世の光としておいでになり、神がいかなる方かを伝えました。神を受け入れない、これが悪い行いです。悪い行いの本質は神を信じないことにあると考えます。神を信じないから、神の御心に反することが生まれてきます。

ヨハネ 3:20
悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。

 悪を行う者つまりイエスが伝える父なる神を信じない人たちは、その行いが明るみに出されるのを恐れて光の方に来ないとあります。

 人というのは、自分に対する批判が向けられるとよく弁明をします。言い訳をします。弁明、言い訳をするということは、その批判が当たっていることを示唆します。人は自分が批判されることに抵抗を感じます。プライドが傷つくのです。だから弁明をしたり言い訳をして、自分の正しさを保とうとします。人は自分の本当の姿、しかも批判されるような悪しき自分の姿を認めたくないのです。イエスが光としておいでになったのに光を憎む人、イエスを信じようとしない人たちの心の奥底には、自分の悪しき姿が露見するのを恐れる心があります。その恐れが自分の中にあることを人は自覚しているとは限りません。でも光は心の闇を照らすのです。

 イエスに敵対したファリサイ派や律法学者と呼ばれる人たちは、自分は神の律法を守っており、自分は神の前に正しく生きているとの自信を持っています。イエスは彼らのことを偽善者と批判します。彼らはイエスの批判をものともせず、自分を誇ります。彼らは自分を批判する基準を持っていないのかもしれません。

 人は自分を批判的に見る自由を持つことが大切です。私たちにとって自分を批判的に見る視点、自分を映し出す鏡、それは聖書つまり神の言葉です。神の言葉に照らして自分はいかなる人間であるかを見ることができます。自分の罪を知り、悔い改めることができます。神の言葉は私たちを裁くだけではなく、悔い改めへと導きます。そこから神と共に歩む歩みが始まります。

 イエスを信じない人は光を憎み、光によって自分がいかなる存在であるのかが暴露されるのを恐れています。他方、光によって自分の姿を知らされ、悔い改めて光に行くという歩みがあります。イエスは人々を光の中を歩むように招いておられます。

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