前回、霊に従って歩む場合、キリスト者である自分が何者であるかを知ることが大切であることを確認しました。自分の内に聖霊が住んで下さり、自分は新しく生まれた者であり、神の子とされていることを自覚して歩むことの大切さを確認しました。
キリスト者が霊に従って歩むとは、現実の生活を神の御心に従って生きようとすることであり、聖書の言葉が導きの光となります。
詩編 119:105
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
キリスト者が霊に従って歩もうとすると、肉に従う思いがキリスト者の中で働きます。霊に従うことに抵抗する思いがキリスト者の内に生じます。驚くことも悲観することもありません。これは霊に従おうとするときに必ず起きる事柄だからです。肉に従うという傾向は、なくすことができないからです。
ガラテヤ 5:16~17
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
霊に従う、聖霊の導きに従おうとすると、肉の欲望が生じて、霊に従うことを邪魔しようとするのです。すると肉が霊に勝ち、霊に従うことができないとあります。え、そうなの?
ガラテヤ 5:24
キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
キリスト者は、肉を十字架につけてしまったとあります。つまり肉の欲望が起きたら、それを十字架につけるのです。殺すのです。否定するのです。そして思い切って霊の導きに従うのです。心の中であれこれ考えて、肉の思いに打ち勝とうとはしないのです。打ち勝とうとすると負けます。だから、霊に従う道を選択するのです。清水の舞台から飛び降りる気持ちで霊の導きに従うのです。
とは言っても、すぐにそのような決断ができるとは限りません。現実の信仰生活では、肉の思いに負けることがあるかもしれません。これは言うなれば失敗です。失敗してもいいのです。次の時に、打ち勝てばよいのです。打ち勝つまで失敗してもいいのです。決してあきらめないのです。これは試練だからです。自分は弱い人間だからとか、自分は罪深い人間だからとか、自分は頑なだからと言って、肉の思いに負けても言い訳はしないことです。挑戦するのです。
罪との戦いは試練です。それは喜ばしき試練です。
ペトロ一 1:6
今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
イエスは語ります。
マタイ28:20
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
イエスは、私たちと共におられ、霊に従うように励ましてくださっています。信じて一歩を踏み出します。
ガラテヤ 5:25
わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。