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隠退牧師 holala によるブログ

霊に従うか、肉に従うか

 キリスト者が生きようとすると葛藤が生じます。肉に従うか、霊に従うかという心の戦いが生じます。肉に従って歩むキリスト者は肉の人と呼ばれ、キリストとの関係では乳飲み子です(コリント一3:1)。 

ローマ 8:5
肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。

  ここには肉に従って歩む人と霊に従って歩む人がいることが書かれています。肉とは人間の生まれながらの性質を意味します。肉に従って歩むことは、自分の思い、自分の考えによって歩むことを意味します。肉に属することとは、この世に属する事柄のことです。富、名誉、権力、自己実現などは代表的な肉に属する事柄です。そして自分はこうしたい、ああしたいという思い、欲に従って生きる人を肉に従って歩む人と言います。人は自分の思い通りに生きることができれば、まず自分は自由な人間だと考えます。

 霊に従って歩むとは、神のみ心に「自ら進んで」「喜んで」従って生きることを意味します。これは聖霊の導きの結果です。このように歩む人は霊の人と呼ばれます。この人たちは、霊に属すること、つまり神さまのことを考えます。神さまが与えてくださった救いはいかなるものか、神さまのご計画などを大切なこととして考えます。 

 キリスト者になると聖書から神の教えを学び、これに従って生きようとします。キリスト者が神の教えに従うのは自然なことであり、当然のことです。その時、「神のみ心に従わなければならないから、神のみ心に従う」と考えることがあります。「自ら進んで」「喜んで」従うのではなく、むしろ「義務」として考えるのです。「従わなければならない」と考えるのは、よいことです。神の教えに従おうと考えているのですから。しかし思いがけない問題があります。 

ガラテヤ 5:16~17
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

  「霊の導きに従う」のは、「自ら進んで」「喜んで」神さまの教えに従うことです。「肉の欲望」「肉が望むところ」とあり、人間の心には、神の教えを喜べない心、従いたくない心があります。肉の欲望は、自分の思いを実現したいと願うことが中心です。自分中心なのです。ですから肉は神の教えを聞くと反発することがあります。

 そこでどうなるかというと、「あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」。神に従おうという思いよりも、反発する思いが強く、神の教えに従うことができないという事態が起きます。あるいは「むずかしいな、無理だよ」と言った思いが湧いてきて従うことができません。肉と霊が対立しており、肉が霊に打ち勝っているように思えます。また「神に従わなければならない」と考えている場合、なかなか肉に勝てません。 

 このような事態をパウロは次のように述べています。 

ローマ 7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。

  聖霊に導かれて、神の教えを行おうとしても、私のうちにある「肉」の力がまさるのです。そして神の教えを行えないのは、私が罪に売り渡されているから、つまり罪の奴隷だからだというのです。人間に罪を犯させようと働きかける勢力・力としての罪は、私たちの肉に働きかけ、神の教えに従わないようにさせるのです。ここに神さまの教えに従いたいと思ってもなかなか従えないというキリスト者の悩みが生じることになります。

 

 赦したくても赦せない、神さまに信頼してゆだねたいけどゆだねられない、人を助けたいけど勇気がない。神の御心に従いたいと思ってもできない現実がキリスト者にはあります。霊と肉が対立するのです。

 

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