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隠退牧師 holala によるブログ

信仰による従順

 ローマの信徒への手紙をこれから味わうことにしました。私の人生で、この手紙を味わうのは、これが最後だと思います。

 パウロはローマの信徒への手紙の最初で自分が使徒とされた目的について語ります。

ローマ 1:5
わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。

 パウロはキリストを宣べ伝えます。パウロは、異邦人つまりユダヤ人でない人たちを「信仰による従順」へ導くという使命を与えられました。「信仰による従順」とは何でしょうか。

 「あなたがたは、神を信じるのだから、神さまの教えに従いなさい」とパウロは教えたのでしょうか。神に従いなさいと教えることは、信仰による従順に導くことなのでしょうか。違うと思います。それだったら信仰による従順に導くことは簡単です。「神さまに従いなさい」と言えばいいだけのことです。

 旧約聖書を読むと分かることがあります。エジプトにおける奴隷状態から解放されたイスラエルの人々は、神の民となり、神さまから戒めを与えられ、神さまの教えに従うことを神さまから求められました。神さまは彼らに、私の教え・戒めに従いなさいとお命じになったのです。イスラエルの民は、神さまに対する従順を求められました。しかし旧約聖書を読んで分かることは、イスラエルの民は神さまに対して従順になれなかったということです。言い換えると、神さまに従順になりなさいと教えても、イスラエルの民は従順になれなかったことを旧約聖書は伝えています。

 それ故、パウロが語る信仰による従順とは、信仰者だから、神さまに従いなさいと教えられて神さまに従順になる努力することではないのです。人間が神さまに従順になるように努力しても従順になれないことを旧約聖書は語っています。信仰による従順へと導くことは、あなたがたは信仰者なのだから、神さまの教えに従いなさいと教えることとは全くべつな事柄なのです。

 信仰による従順とは何か、パウロはこのローマの信徒への手紙の中で説き明かしていきます。

ローマ 1:2
この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、

とあるように、信仰による従順とは何か、それは旧約聖書の中で預言者を通して約束されています。これを典型的に示しているのがエレミヤ書32章の言葉です。預言者エレミヤは語ります。

エレミヤ 32:37~40
「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。

 イスラエルの民は、神の民とされましたが、神さまに従順に従うことに失敗しました。神さまに逆らい、神さまに対して罪を犯しました。その結果、罪に対する神さまの裁きを受けて、イスラエルの国家は滅びました。エレミヤの預言は、回復の預言です。これはイスラエルの国家の回復預言ではありません。この預言はイエス・キリストによる救いを預言していると理解します。あるいはイエス・キリストによる救いを約束しています。では何が約束されているのでしょうか。

 神さま言います。「わたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする」。イエス・キリストを信じる人は、神さまに従う心を与えられ、神さまに従うようになるというのです。神さまに従う心がどのように与えられるのか、パウロはローマの信徒への手紙の中で説明していきます。ローマの信徒への手紙、8章まで通読してみませんか。そこに書かれています。

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神さまに従う心を神さまから与えられたとき、
私たちは神さまに従順になれる。
そうでなければ、神さまに従順になろうとする試みは失敗に終わる。
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