礼拝説教の紹介です。
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ローマの信徒への手紙 1章1~7節
説教 神の御子に関する福音
2024年5月12日
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0.導入
→パウロは、自分は神の福音のために召されたと語ります。
そしてその福音は、預言者たちを通して約束されたものであると語りました。
さらに福音は、御子に関する福音であると語ります。
今日は、この御子に関する福音を取り上げます。
→ここでいきなり「御子」という言葉が出てきます。
原語のギリシャ語では、「神の子」です。英語では son of God です。
新共同訳聖書では、「神の御子」と訳しています。
キリスト教会が信じる神は、三位一体の神です。
父なる神、子なる神、聖霊なる神がおられますが、
3人の神ではなく、一つの神であると教会は信じてきました。
神の御子とは、子なる神のことです。
教会は、人間として生まれ、十字架で死に、復活したイエスが
まことの人であり、まことの神であると信じてきました。
神は人間を救うために、子なる神、御子をこの世にお遣わしになりました。
御子でなければ人を救えないと神は考えられました。
そこでなぜ御子でなければ人を救えないのか、聖書に聞いてみたいと思います。
1. 神との交わりに生きる人間
→まず原点に立ち返ります。
神を知るにはどうしたらいいのでしょうか。
神さまが、ご自身がいかなる方かを示して下さらなければ、
私たちは神を知ることができません。
私たちの方から神を知る手段はありません。
神さまは聖書を通して、ご自身のことを私たちに教えてくださいます。
人間はしばしば、神さまはこういう神であって欲しいという願いを持ちます。でもそれは、人間が創り出した神、偶像になります。
聖書を通してのみ私たちは神を知ります。
→創世記によれば、神は人間を造られたとあります。
神は何のために人間を造られたのでしょうか。
人間は何のために存在し、何のために生きるのでしょうか。
創世記が教えてくれます。
創世記1:27
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
男と女に創造されたと書かれています。
男と女は、交わりをもって、互いに関わりをもって共に生きていくものとして創造されました。
神にかたどって造られた人間が、互いに関わりをもって共に生きていくということは、
神ご自身が交わりに生きる神であることを意味しています。
人間が神との関わり、神との交わりに生きるように造られたことを
私たちは聖書を通して教えられます。
信仰とは神との交わりに生きることです。
これは信仰の本質に関わる大切な教えです。
信仰は神との交わりという考えを持たないと、
神というのは自分のために何かをしてくれる存在という考えになりがちです。
聖書が伝える信仰は、神との交わりに生きる信仰です。
神は私たちに関心を示し、私たちは神に関心を示します。
→そのことを教えるのが旧約聖書です。
旧約聖書の出エジプト記を読むと、
イスラエル民族が神の民として選ばれたことが分かります。
イスラエル民族はエジプトで奴隷として何十年も苦しい生活をしてきました。
彼らがその苦しみの中から神に助けを求めて叫ぶと神は、
イスラエルの民を奴隷状態から解放し、
さらに自由に生きる土地へと彼らを導かれました。
そして彼らは神の民として、神との交わりに生きるように召されました。
神に選ばれた民、選民であるイスラエルは神との交わりに生きる使命が与えられました。
神との交わりに生きることにより、世界に向かってまことの神がおられることを証しする使命も与えられました。
→神はイスラエルの民と契約を結びました。
神は、私はあなたがたの神となると約束しました。
イスラエルの民も、あなたを神とし、あなたの言葉に従いますと約束しました。
神はイスラエルの民に十戒という掟を与え、人がいかに生きるべきかを教えられました。
神の戒めは、それを守ること自体が人間の幸い、祝福となります。
神の戒めは神からの祝福を得るための手段ではなく、戒め自体が祝福なのです。
→イスラエルの民は神との交わりに生きるべく選ばれた民でした。
しかし旧約聖書に描かれているイスラエルの民の歴史は、
彼らが神に背き、神に対して罪を犯して生きたことを明らかにしています。
そのためにイスラエルの民は国家の滅亡を経験します。
イスラエルの民は、罪に対する神の怒り、神の裁きを体験したのです。
神はなぜ罪に対して怒り、罪を裁こうとなさるのでしょうか。
神は正しい方ですから、罪を嫌います。
それだけではなく罪は、神との交わりを壊します。
神は罪を犯し続ける者と交わりを持つことはできないからです。
→イスラエルの民は罪を犯し、国家が滅亡するという事態に直面しました。
しかし神はイスラエルの民を見捨てることをせず、
預言者を通して、救い主を送ることを約束されました。
そして時が満ち、救い主が誕生しました。
→救い主の人間としての名はイエス。救い主はまことの人間でした。
しかし十字架で死んだあと三日目に復活し、神の御子であることが証明されました。
そのことが今日の聖書の3~4節に書かれています。
1:3~4
この福音は御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。
→この聖句は、御子はまことの人であり、まことの神であることを語っています。
神は人間の救いのために神の御子をこの世界に送られました。
イスラエルの民が示したように、
すべての人間は皆、神の前に罪を犯して生きています。
罪は色々な弊害をもたらします。特に人間関係に問題を起こします。
その結果、人は思い悩みます。自業自得と言うことができます。
さらにいつの日か、人間は皆、神の裁きを受けると聖書に書かれています。
人間を罪の支配、罪の奴隷状態から救うために、
さらに人間を神との交わりに招くために、神は御子をこの世に遣わしました。
2.福音は御子に関する福音
→神は御子を通して、どのように人を救おうとされたのでしょうか。
神は御子を通して救いの御業として三つのことをしてくださったと私は考えています。
御子でなければできない三つのことを神はして下さいました。
- 神は御子のゆえに私たちの罪を赦してくださいます。
- 神はキリスト者を御子キリストに結ばれた者とし、新しく生まれさせてくださいます。
- 神はキリスト者が神の戒めに従って歩み、神との交わりに歩めるようにしてくださいます。
そこでこの三つのことを順に取り上げたいと思います。
- 罪の赦し
→第一に、神は御子のゆえに私たちの罪を赦してくださいます。
人間は自分が犯した罪に対する赦しを必要としています。
人間の罪とは、人間が基本的に自己中心的であり、他者との間に摩擦を生じて生きていくことにあります。
罪は様々な問題を起こし、苦しみをもたらします。
人間は互いに傷つけあって生きています。
その最たるものは戦争です。
そんな人間には罪の赦しが必要です。
まず罪に対する神の怒り、裁きから救われるためです。
そして神との交わりに生きるためです。
神の赦しは、神との交わりへの招きです。
→イスラエルの民は神の民として選ばれました。
神は、イスラエルの民が罪を犯したとき、
赦しを得るために動物のいけにえを献げるように命じられました。
罪の赦しを得れば、イスラエルの民は、神との交わりに生きることが許されます。
神は正しい神ですから、罪を犯し続ける者の神になることはできません。
→この動物のいけにえには一つ欠点がありました。
いけにえを献げる人間を変えることはできませんでした。
罪を犯す人を、罪を犯さない人間に変えることができませんでした。
つまり人は罪を繰り返すことになります。
→そこで神は御子を、罪を贖ういけにえとしました。
罪を贖うとは、罪に対する神の怒りをなだめるという意味があります。
神の怒りをなだめ、罪の赦しを得るのです。
御子は十字架で、贖いのいけにえとして死にました。
動物のいけにえは、人が罪を犯したときに、その犯した罪に対する贖いです。
しかし御子の犠牲による贖いは、すべての人の、すべての罪に対する贖いとなります。
御子を信じる人はだれでも、その人が犯す罪の赦しを得ることができます。
過去の罪も、今犯す罪も、将来犯す罪の赦しも得ることができます。
→神はなぜ、御子を贖いのいけにえとしたのでしょうか。
それは人が自分の罪を自分で贖うことができないからです。
人間の罪に対する贖いは本来人間がすべきです。
もし自分を贖いのいけにえとすると自分が死ぬことになります。
自分が死ぬなら、自分を贖いのいけにえとすることに意味はありません。
人間は自分を贖うことができません。
しかし人間が罪のあがないをしなければなりません。
そこで神の御子が人となり、贖いのいけにえとなる必要がありました。
人は御子の贖いを信じ、罪赦され、神との交わりが回復されます。
4.新しく生まれる
→御子を救い主として世に送る第二の理由は、キリスト者を御子キリストに結ばれた者とし、新しく生まれさせるためです。
神の御子による救いは罪の赦しだけではありません。
神との交わりに招かれたキリスト者が罪を犯さないようになることが大切です。
罪を犯し続けるような生活は、救われた生活ではありません。
私たちは完全に罪を犯さない人間になることはできませんが、
キリストは私たちを罪の奴隷から解放してくださいました。
「あなたは罪の奴隷です」と言われたら驚かれるでしょうか。
私はかつてタバコの奴隷でした。
タバコをやめたいと思っても、やめられないからです。
私たちが罪を犯すのをやめようと思っても罪を犯してしまうのは、
罪の奴隷だからです。
→罪の奴隷状態から解放され、罪を犯さなくなるには
どうしたらよいのでしょうか。
信仰教育をしっかりすればよいのでしょうか。
神の教えを守るように徹底的に教えればよいのでしょうか。
ダメです。
なぜなら人間は自己中心的な心を持っているからです。
この心がある限り、人は神の戒めより自分の気持ちを重んじます。
隣人より、自分のことを優先します。
神を愛することにも、隣人を愛することにも失敗します。
→必要なことは、私たちが生まれ変わることです。
新しい人になることです。
どのようにして私たちは生まれ変わるのでしょうか。
→それは洗礼を受け、キリストに結ばれることによってです。
十字架で死に、三日目に復活されたキリストに結ばれることです。
洗礼式は、キリスト者になる儀式ですが、それ以上の意味を持ちます。
つまり、洗礼を受ける人はキリストに結ばれるのです。
イエスがぶどうの木のたとえを語られました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。
これはキリスト者がイエス・キリストに結ばれていることを教えています。
聖書にこう書かれています。
ローマ 6:3~4
それともあなたがたは知らないのですか。
キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、
またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、
その死にあずかるものとなりました。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、
わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
→洗礼を受けてキリスト者になった私たちはキリストに結ばれます。
さらに新しい命に生きるとあります。
キリスト者は、生まれ変わったのです。新生したのです。
さらに次の聖句があります。
ローマ 6:6
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、
罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると
知っています。
→罪を犯す古い私は死んで、もはや罪の奴隷にならないとあります。
新しい命に生きるキリスト者は、罪の奴隷ではなくなりました。
神がイスラエルの民をエジプトから解放したように
私たちはキリストに結ばれ、罪から解放されたのです。
私たちは、神の戒めに従うことができるように、新しく生まれたのです。
キリスト者は神の助けを得て神の戒めに従うことができるように生まれ変わったのです。
キリスト者は神との交わりに生きる者に生まれ変わりました。
→キリストに結ばれたキリスト者は、
罪に打ち勝つ者になったことを覚え、
これを信じて生きることが大切となります。
私たちは、救い主である御子に結ばれました。
罪に打ち勝ち、神を愛し、隣人を愛する者になることができます。
私たちは御子に結ばれ、新しい命に生きます。
新しく生まれ変わり、罪に打ち勝つ者とされ、
神の御心に生きる者とされました。
御子と結ばれてこそ、キリスト者は、神の戒めを守ることができ、
神との交わりに生きることができます。
救い主は御子でなければならないのです。
5.神との交わり生きる人間への回復
→救い主が神の御子でならなければならない第三の理由は、
キリスト者が神の戒めに従って歩み、神との交わりに歩めるようになるためです。
神の御子、イエス・キリストは、私たちが神との交わりに生きる時、私たちの模範となる方です。
フィリピの信徒への手紙にとても興味深い箇所があります。
3~5節を読んでみます。
フィリピ 2:3~5
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
互いにこのことを心がけなさい。
それはキリスト・イエスにもみられるものです。
→パウロはここで、
へりくだって相手を自分より優れた者と考えなさいと勧めています。
また自分のことだけではなく、
他人のことにも注意を払いなさいと勧めています。
そしてこれらのことを互いに心がけなさいと勧めます。
なぜ、そうするのか、その理由を次に語ります。
「それはキリスト・イエスにもみられるものです」。
そして続けます。
フィリピ 2:6~8
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
使徒パウロは、キリストは神の身分でありながら人間となったという
キリストの謙遜を紹介するのです。
さらにキリストが十字架の死に至るまで神に対して従順に歩まれたことも紹介します。
神への従順は、神との交わりに生きる信仰者の特徴です。
このキリストの謙遜を見倣いなさいとパウロは勧めます。
→神の御子は、私たちの生きる模範となる方です。
私たちがキリスト者として歩むとき、模範が必要です。
キリストはまことの人として父なる神の前に従順に歩んだ人、
神との交わりに生きる本来の人間を生きておられます。
模範としての御子がいなければ、キリスト者は目標を見失います。
→神は、私たちの罪が赦されるために、御子を世に送って下さいました。
神は、私たちが生まれ変わって新しい命に生きるために、
御子を世に送って下さいました。
そして私たちが神との交わりに生きるための模範として
御子を世に送って下さいました。
この御子によって生きることができる、これこそが福音です。