日々の思い
先日讃美歌392番を歌ったとき心が震えました。 神のみ声は 昔のごと 今なお人を 召したもう 囚われし民 悩む者を 救う使いの 世にはなきか
今日、友人から送ってもらったモーツァルトのピアノソナタのCDで音楽を聴いていました。集中して聞いて、聞き終わったとき、心が洗われたような、澄み切った心になっているのに気づきました。
自分は怠慢の奴隷なのだと思いました。した方がよいと分かっていてそれができないのは、何かの奴隷だと私は考えています。
十字架のくしきひかりを見るとはどういうこと?
この世で何が起きようと神さまを讃えて生きていきたい、それが年初の志です。
年末になると思うことがあります。終わりがあること。自分の人生に、そしてこの世界に。
最近、感謝して生活を楽しむことも御心に適うことではないかと考えるようになりました。
月曜日のブログに「毎日単調な日々を過ごしていると、ふと自分は何のために生きているのだろうという思いが心をよぎります」と書きました。新たな思いが来ました。
先日眼科医に行き、眼瞼下垂の症状があることに気づき、紛れもない老化の現実を見る思いがしました。
墓前礼拝での死をめぐっての孫とのやりとりの紹介です。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。訃報を聞くことによって何が始まるのでしょうか。
先週は頭痛に悩みました。ストレスが原因らしく、ストレス発散のために、山里に出かけ、ウォオーキング。
今日は録画しておいた、イギリスの故エリザベス女王の葬儀を見ました。
自分は死んだら無になると考えて、平然と日々を生きることができる、そんな人がいることをあらためて知り、人間って色んな人がいることを思いました。
人間の生活は習慣から出てきているように思います。よい習慣を作ることはよい人生を生きることにつながります。
今日の出来事。
日曜午後、双子の孫と一緒の時間を過ごしました。
祈祷会で賛美した讃美歌に共通点が。
テレビで統一教会のことが話題となっています。私の人生に無関係なな団体ではないことを思い出します。
コロナ禍、実現できなかった妹を見舞うことができました。
用事があって東京に行ってきました。東京出身の私ですが、人の多さに驚くと同時に、沢山の人たちの中のひとりでしかない自分を感じます。
ふっと思い出したのが助けを求めて叫ぶイスラエルの民のことです。私たちの世界でも、助けを求める叫びが聞こえます。
神の約束に生きる信仰者の気持ちを思いめぐらします。
礼拝奉仕をしたあと羊飼いについて思いが湧いてきました。
梅雨間近のこの季節、年を重ねた今、気温の変化が微妙に体に影響を与えます。
他者と自分を比較してのさまざまな違い、それは神の恵みに下に置かれたとき、小さなものになります。理想の自分と現実の自分の違い、それも神の恵みに下に置かれたとき、小さなものになります。
夫婦二人の生活、一日の終わりに感謝できる日々はとても貴重。
私が明るく輝く木の姿に感動するのは、木々が信仰に生きる自分の姿を映しているからかもしれません。
ロシアの軍事侵攻に直面して考えさせられたことがあります。
教会でバッハのマタイ受難曲を聴く会が開かれ参加しました。貴重な体験でした。