クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

気になる聖句

 最近、気になっている聖書箇所があります。

ローマ 3:22~24
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 私が気になるのは、23節の「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」です。この「栄光を受けられなくなっています」の部分を多くの英語訳聖書は  "and fall short of the glory of God" と訳しています。

 この "fall short of" は、〔ある標準・期待などに〕達しない、及ばない、届かない、不十分である、と訳される言葉です。

 そこで私は「神の栄光を現すことができなくなり」と訳して聖書を解釈したいと考えます。神の栄光を受けられなくなっているという訳だと、何を意味しているのか、漠然としています。でも「神の栄光を現すことができなくなり」だと何を意味しているのかが、私にははっきりしてきます。

 私は創世記における人間創造の記述を思い起こします。神は人間をご自身にかたどって、ご自身に似せて造られたとあります。天地創造に際し、神は沢山の種類の生き物を創造されましたが、ご自身にかたどり、ご自身に似せて造られたのは人間だけです。人間は神にとって特別な存在でした。

 そして神は人間に地を治める務めを与えました。人間は神の代理として地を治めるのです。立派に治めれば、神の栄光を現します。人間は神を映しだす存在として造られました。そこに人間の栄光があります。この栄光は神が与えられるものです。

 しかし人間は罪を犯し、神を映し出すことに失敗しており、地を治めるという神の代理の務めに失敗し、地を治めるという神から与えられた栄光を失ってしまいました。

 人間に対する神の戒めは二つに集約できます。神を愛すること、自分を愛するように隣人を愛することです。人間はこの戒めを実践することによって地に平和を生み出し、地を治めることができます。しかし人間は、自分中心・自分の利益優先に生きています。国家レベルで考えても、自国中心に考え、他国に戦争を仕掛け領土を奪おうとする事が現実に起きています。戦争で地は破壊されています。今の人類は、神を映し出す存在とはほど遠い存在になっています。

 年を取ったせいか、人間の力でこの世界がよくなるという期待はすっかりなくなり、世界の現実に失望を覚えることが多くなりました。そして23節の言葉が、気になり、心にとどまります。主よ、来たりませ。マラナタ。

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