クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私につながっていなさい

 昨日は教会の祈祷会。ヨハネ福音書15章1~17節を共に読み、しばらく思いめぐらし、各自が心にとまった聖句を紹介し合いました。人それぞれの人生があるからでしょうか、ほとんどバラバラでした。この箇所は印象的な聖句が幾つもあるので、当然の結果かも知れません。

 この箇所はイエスにつながることがテーマです。イエスにつながっている者は実を結ぶとの約束があります。しかしつながっていないぶどうの枝は切られるとか、実を結ばない枝は投げ捨てられて枯れるとか、警告もあり、そこに不安を覚えることもあります。

 年をとり教会の礼拝に行けなくなるとか、聖書を読めなくなるとか、イエスにつながっているときにできていたことができなくなると自分がイエスにつながっているかどう不安になることがあるかもしれません。

 イエスは手を差しだしておられるので、私が手を離さない限り、イエスにつながっていると考えます。イエスから先にが手を離すことはないと信じるので、私がつながり続けるなら、私はイエスとつながり続けていると信じます。

 主イエスとつながるために、私は礼拝を大切にし、聖書を読み、祈ることを大切にしています。さらに年をとり病気になったり、介護を必要とする生活になるかもしれません。礼拝に行けなくなり、聖書を読めなくなるときが来るかもしれません。先のことはその時になって考えればよく、今、主イエスにつながることを大切にして生きていきたいと思いました。

 ちなみに、私が印象に残った聖句は9~10節です。

ヨハネ 15:9~10
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 私は、ここにキリスト者が主イエスの掟を守る理由を見出します。主は私のことを愛しておられます。主は「私の愛にとどまりなさい」と命じます。主の愛にとどまっているかどうかは、主の掟を守るか否かで分かるとあります。主に愛されているから、主の掟を守ります。私がイエスの掟を守るのは、守る義務があるからではなく、私を愛してくださる主の愛にとどまっていたいからです。小さな証しをしました。

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