聖書
「いつでも死ねるために生きる」。今読んでいる本の中にある言葉です。この言葉を思いめぐらしました。
知人からある集会に誘われ、聖書の読み方を学びました。この読み方に従い、今日まで聖書を読んでいます。これも神の導きと信じています。
エレミヤ書で印象に残る聖句です。「わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを」。
「死も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」。キリスト者の希望です。
黙示録の言葉。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」。慰めに満ちた言葉です。
私にとってアブラハムは信仰の模範です。彼は天の故郷を熱望していました。わたしもそうしたいです。
ローマ 14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
「栄光から栄光へ」というワーシップソング。キリストに似た者となるという信仰の目標を与えられました。
パウロは、「世を去ってキリストと共にいたい」との願いを表明しています。今、世を去ってもいいとさえ思っています。このパウロの願いにびっくりします。
私は聖句をもとに死後の希望、楽しみを抱くようにしています。
キリスト者は信仰という盾によって悪い者が放つ火の矢を防ぎます。恐れ、不安、疑い、思い煩い、などの火の矢が信仰者を攻撃します。
「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」。信仰者にとって、霊の剣は、悪魔と戦う時の武器です。
教会の頭はキリストです。キリスト者はキリストに結ばれた存在です。
「キリストは敵意という隔ての壁を壊し」また「十字架によって敵意を滅ぼされました」。 キリストにあって一つとなる教会は、神の秘められた計画を証ししています。
私の好きな聖句。信仰とは神との関係に生きることを伝える聖句。
聖書日課に従って聖書を読んでいると、思いがけなく、自分を生かした聖句に出会い、うれしく思います。
洗礼を受けた者は、新しく生まれた者と聖書は教えています。それゆえ、新しく創造された者として生きるよう教えられました。
天の国に向かえらえた人について序列はあるのでしょうか。「天の国で最も小さい者」「天の国で大いなる者」「天の国で一番えらい」という言葉が出てきます。
私を生かした聖句 コリント二12章9節。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。
私を生かした聖句。 ガラテヤ 5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
主イエスを直接知る弟子たちや復活のキリストに出会ったパウロが死んだ後、教会はどうやってイエス・キリストを宣べ伝えることができたのでしょうか。
第2コリント5:17 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」。 キリスト者は新しく生まれた存在です。
「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」。私の祈りでもあります。」
私を生かした聖句。 フィリピ 4:19 わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
今回の「私を生かした聖句」はロマ書14章8節です。 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」。
空しさを覚えていた私にピッタリの聖書の言葉、それがロマ書12章1節の言葉でした。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」。
老いの中にあって、過去を振り返るのも時間の過ごし方としていいのではと思うようになりました。。それで、私の信仰を支えた聖句を振り返りたいと思いました。
私が神との交わりに生きようとしたとき、神を知る努力をしました。聖書を通して、私たちは神を知ることができます。また人はいかに生きるべきか、神さまがどのように考えておられるのかも知ろうとします。これもまた聖書に書いてあります。
「霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」。霊に従う人は聖書を糧とします。聖書を読み、読んだ箇所を思いめぐらし、読んだ聖書の言葉を自分の信仰の歩みの導きの光とします。
疑う心に対する対処法。私の場合。信仰者としてのアイデンティティー。聖書の真理性。