聖書の読み方で悩んだ私が納得した読み方と出会いました。私が学んだディボーションの方法を紹介します。このディボーションによる読み方は、聖書を読む視点を持つところに特徴があります。第一に読んだ聖書の箇所で、神さまはいかなる方として描かれているのか、という点に着目します。私たちは神さまを信じる者ですが、どのような神を信じているのか、私たちは案外自覚していないのではないでしょうか。
聖書を読めば、神さまは人を愛するし、罪に対してお怒りになるし、正義を愛するし、憐れみ深いし、神さまについて色々なことが分かります。
私が今住んでいる奈良では、沢山の人が神社やお寺で祈っています。祈っていますが、自分の祈る相手には関心を持っていません。自分の願いを聞いてもらえればいいのです。しかし聖書の神さまは違います。「わたしに信頼せよ」と聖書の神は、私たちに語りかけます。信頼するからには、私たちは神がいかなる方かを知らなければなりません。聖書の神さまは、私に従いなさい、と語りかける神さまです。神さまがいかなる方かを知らないと従っていいものかどうか分からなくなります。
ですから神さまがいかなる方かを知ることはとても大切です。神さまをきちんと知ることは神さまに対して敬意を払うことでもあると思います。与えられた聖書箇所を読み、神さまはいかなる方なのかを知る努力をします。
私たちは時に、自分の父親のイメージを神さまに重ね、神さまを誤解することがあります。そのような誤解をなくすためにも、聖書から神さまがどんなかたかを知ることは大切となります。きっとうれしくなると思います。
聖書を読む視点の第二は、神さまは、いかなる生き方をすることを私たちに願っているかを知ることです。信仰者の生き方を具体的に知ることになります。
具体的には、何が罪なのか、神の約束は何か、避けるべき行動は何か、従うべき命令は何か。どんな模範が示されているか、というような視点で、信仰者の歩みについて聖書から読み取るわけです。
そして読み取ったことをノートにメモします。これは聖書を読んだ記録にもなります。自分の信仰生活の歩みの記録にもなります。信仰に生きた証しにもなります。
私が多くの信仰者に知ってほしいことがあります。それは、神さまの教えは信仰者の守るべき義務ではなく、信仰者を祝福する神さまの手段であることです。