クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

キリストにより豊かにされた私(4)聖書によって考える心

コリント二 8章9節
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

 キリストによって豊かにされた私の4回目は<聖書によって考える心>です。私は自分が物事を考えるときの土台を聖書においています。聖書に基づいて物事を考えるようになりました。

 信仰を持って間もない頃から聖書はできるだけ読みたいと思って過ごしました。牧師になる前はサラリーマンでした。通勤するときのバッグにはいつも聖書を入れていました。その当時は、気に入った聖書の言葉に赤線を引いていました。自分を励ます言葉、共感できる言葉、真理だと思った言葉、教えられた言葉などに赤線を引きました。これらの言葉を大事にしました。

 でもその当時は、自分が身につけてきた考え方に聖書の言葉を取り入れたのです。物事を考える主体は、自分にありました。それまで経験したこと、学んだこと、身につけてきたことなどをもとに物事を考えていましたので、聖書の言葉は参考にするという扱いでした。聖書の言葉ですから、大切にしました。しかし物事を考える土台は、自分であり、自分が身につけてきた価値観、思想、考え方が土台でした。

 しかし、ディボーションという聖書の読み方をするようになってからは、聖書を土台にして物事を考えるようになりました。私は信仰者ですから、聖書によって生きる、それが自分のアイデンティティーとなりました。それは言い換えると神さまの御心に従うということになります。

 そもそも罪とは何でしょうか。それは神さまの御心よりも自分を上におくことです。神さまの上に自分が立つことです。それは創世記の初めに、アダムとエバが、神さまが取って食べてはいけないと言われた木の実を食べたことが聖書に書かれています。神さまは食べてはいけないと言われた。しかし自分は食べてもよいと思う、そう考えて彼らは食べました。神さまの戒めに背くことは、単に悪いことをしたということではなく、神さまの御心よりも自分を上に置くという根本的な罪です。

 神を信じるとは、神を見あげて生きることです。それは神の御心に従うことです。だから聖書を土台にして物事を考えることが信仰者の道だと考えるように導かれました。私は心が豊かにされたと考えています。

f:id:holala:20211102211450j:plain

野菊