私は聖書を思いめぐらし神さまの導きを求めます。聖書を通して神さまは私を導いてくださると信じるからです。
神さまは私を愛し、私のすべてをご存じで、私を導いてくださると信じます。だからその導きが何か、聖書を思いめぐらしながら考えるのです。神さまは私のおかれた状況をご存じで、私に何が必要かをご存じです。聖書を思いめぐらす中で、これが神さまの導きかなと思うものがあれば、それを導きとして受けとめます。その導きに従います。これを御言葉を適用すると言います。ヤコブの手紙2章14節に次のように書かれています。
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
聖書を思いめぐらし、導きを与えられてその導きに従う、これが私にとって信仰に伴う行いです。
私の人生で忘れられない神さまの導きがあります。私が御殿場教会の牧師をしていたときのことです。会堂建築をし献堂式を間近にしたとき、金沢元町教会が無牧で牧師を求めている、赴任することを考えてもらえないかとの電話を受けました。私は会堂建築したばかりなので教会を転任することは考えられませんでしたが、とりあえず考えさせてくださいと返事をしました。
そして何日かして思いめぐらしたのが使徒言行録16章6節以下です。パウロが幻を見ました。ひとりのマケドニア人が、マケドニアに来て私たちを助けてくださいというのです。それでパウロは予定を変更してマケドニアに行きました。私はこれを読んで、金沢元町教会に赴任することは神さまの御心だと判断しました。私は神の導きと信じて、金沢元町教会に転任しました。
神さまの導きを求めるために、私は聖書を読みます。