クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

勝利の道は目の前に

 神の教えに従って生きようとするキリスト者の心は戦場です。キリスト者である「私」は聖霊の導きにより神の教えに従おうとします。善を行おうとします。しかし「罪」は肉を通して働きかけ、肉に従うように「私」を攻撃します。「罪」は私に対して、神の教えに反発を感じさせ、逆らうように働きかけます。そして「私」は敗北します。わたしはなんとみじめな人間なのでしょうと告白します。これは誠実なキリスト者の深刻な告白です。

 昨日は私の経験をお話ししました。もう一つ体験談をお話しします。私が最初に仕えた教会にいたときのことです。私が赴任する前に既に教会は移転用の土地を購入してありました。赴任後4年目にその土地に新しい会堂を建てました。その後のことです。いたずら電話がかかってくるようになりました。最初は無言の電話でした。やがて妻が電話に出るとひどい言葉を浴びせられるようになりました。

 電話の内容を録音しました。それを聞いているとだれがかけているのかおよそ見当がつきました。しかし確実にその人だとは言えないので放置しました。やがて私は別の教会に転任し、いたずら電話はなくなりました。

 私は一つの聖書の読み方を学びました。ディボーションと呼ばれる読み方です。聖書を読み、思いめぐらし、その箇所から神さまの教えを読み取り、適用をするようにしました。別な言い方をすると聖書を思いめぐらす中で、神の導きを聞き取り、その導きに従います。このようにしてみ言葉に従い、神の導きに従う信仰の歩みをしました。妻と一緒にディボーションを学びましたので妻もデボーションをします。

 ある時、妻が聖書を読むと「赦しなさい」との教えが書かれていました。妻はあのいたずら電話を思い出しました。電話をかけた人を赦しなさいと神さまが導いておられると受けとめました。しかしひどい言葉を浴びせられ、赦せるものではありません。妻の心は深く傷ついていました。神さまは赦しなさいと言います。しかし、あれだけひどいことを言われたのです。赦せるものではありません。ここに霊の導きと肉の導きの対立が起こりました。心の中で戦争が起きました。

 人間に罪を犯すように働きかける勢力・力としての「罪」は、あれだけひどいことを言われたのだから、赦せるわけないよね。赦せる気持ちでないのに赦すなんて自分を偽ることになるよ、などとささやいてきます。そして神の教えに逆らわせるのです。

 心の葛藤で妻はかなり苦しみました。苦しみに耐えきれなくなり、神さまに「赦します」と告白しました。それは赦せる気持ちになったからではありません。感情的にはとうてい赦せません。だから心の葛藤は苦しいのです。他になすすべもなく神さまに「赦します」と告白しました。意志で神に従う道を妻は選択したのです。

 これには後日談があります。しばらくして御菓子が届いたのです。送って下さったのは、いたずら電話をかけた人ではないかと推測したその人からでした。妻がお礼の電話をすると「あの時はごめんなさい」との言葉が返ってきました。不思議な出来事でした。

 キリスト者は心の中の、あの葛藤に直面したら、神に従う決断をすることが大切です。この決断をすることによって新たな道が開かれてきます。罪に勝利する歩みが始まります。「清水の舞台から飛び降りる」のです。「私はみじめな信仰者だ」との思いを持ち続けて生きるのはキリスト者として敗北です。勝利の道は目の前にあるのです。

 

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