クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

愛は自慢せず、高ぶらない

 コリントの信徒への手紙13章を今ディボーションしています。愛について一つ一つ思いめぐらしています。

 自慢すること、高ぶることに共通していることは自分をよく見せようとすることです。自分を称賛に足る人物であると見せようとすることです。具体的には自分がどのようにすぐれているかを語ること、それが自慢することです。コリント教会では霊的賜物を受けていることを自慢する人たちがいたようです。特に異言を語る賜物を与えられた人たちが自慢していたようです。自慢し自分を誇る態度が高ぶりとなって現れます。そこには霊的賜物を持たない人を軽視する気持ちが隠れていると思われます。

 自分をよく見せようとすることは誰にでもあると言ってよいと思います。イエス様から偽善者と批判をされた律法学者たちは人前で祈り、自分は敬虔な信仰者である、と誇りました。キリスト者も、自分が立派な信仰者であることを認めてもらいたいと思って、右手のしていることを左手に知らせるようなことをすることがあります。

 自慢や高ぶりがなぜいけないのでしょうか。自慢する本人は気づきませんが、ある意味見苦しい行為です。周囲の人は「すごいね」とかいっておだてるかもしれませんが、内心では冷ややかに見ているかもしれません。不快な気持ちを周囲の人に与えかねません。

 また自慢や高ぶりは、他者に対する思いやりを欠くことにつながるからではないか、と考えます。自慢する人、高ぶる人は、自分に関心がありますから、他者に対する関心は薄れます。自己中心的になります。キリスト者は他者に対する関心を大切にすべきなので、愛は自慢せず、高ぶらないと教えられるのだと考えます。

 さらに教会の中に自慢をする人が何人もいたら教会はどうなるでしょうか。人を妬んだり、人を軽んじたり、非難などが生まれるかもしれません。教会の一致を妨げます。パウロは教会の一致、教会がキリストの体であることを考え、愛は自慢せず、高ぶらないと教えたのではないかと思います。

 自分は自慢はしていない、高ぶってもいない、と語るキリスト者は多いと思います。パウロのこの教えを思う時、では愛は何をするのだろうと思います。自慢しない、高ぶらないという態度を裏返すとどうなるのかということです。そこで思い出す聖書の箇所があります。

フィリピ 2:1~5
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

 教会の中で、互いに同じ思いを抱き、思いを一つにする努力、へりくだって他者を自分より優れた者と考える努力、そして他者のことに注意を払う努力、このようなことが「愛は自慢しない、高ぶらない」の積極的な内容ではないかと思います。そして教会の中だけでなく、家庭において、家族に対してもこのような努力をするなら、それは尊い努力だと思います。

 それで夫婦二人の自粛生活をしている私は、妻を自分よりすぐれた者と考え、何が優れているのか、考えてみたいと思いました。

 

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