クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.7.18) 聖書 コリント一12:31〜13:13
私は神に遣わされた者だと感じるようになった(2)


 信仰を持ったらこんな人になっていくという話をしています。そのための努力が必要ですが、信仰者っていいなあと思え、それに向けての努力ができたらいいと思います。信仰者はこんな思いを持ちます。

「私は神に遣わされた者だと感じるようになった。日々の生活が輝きに満ち、愛と奉仕に生きる喜びを感じている」。

今日も聖書に聞きます。


 今日は、コリントの信徒への手紙1を読みました。12章の31節に、「最高の道を教えます」とあります。人間として最高の生き方を教えると言うんですね。

  • 生き方なんて人それぞれじゃないの、
  • 人それぞれでいいんじゃない、と思われるかもしれません。
  • 私たちには、私たちの思いがあるわけですが、
  • これが最高なんて決めつけることができるのか、それは宗教の独善だ、と言われるかもしれません。

 しかし、ひとまず聖書が語ることにも耳を傾けてみたいと思います。13章の1〜3節では、愛がなければ何の価値もない、無に等しい、何の益もない、と書かれています。

  • どんなに神秘的なことを語ったとしても、人が知らない不思議なことを知っていたとしても、
  • 山をも動かすような、奇跡を起こせる信仰を持っていたとしても、
  • 全財産を貧しい人に施したとしても、

 愛がなければ意味がない、役に立たない、価値がないと言っています。だから、愛が最高の道だと聖書は語っています。それで、具体的に愛するってどんなことかが4節以下に書かれています。

「愛は忍耐強い、愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない」。

 後続きますが、

  • これのどこが最高の道なの、と疑問に思う人がいるでしょう。
  • いやそもそもこれらのどこが愛なの、と思われるでしょう。

 町を歩くと、両耳から白い細いケーブルをたらしている人が沢山います。音楽を聴いているんですね。流行している歌は、愛をテーマにしているものが多いです。人は愛を求めています。愛する人を求め、愛してくれる人を求めます。愛する人と出会った喜び、愛し合う喜び、愛を失う悲しみ、時には愛してもらえない恨みや憎しみなどを歌ったりしています。


 愛はねたまないというが、愛があるからねたむわけだし、愛があるから自分を捨てた人に対して恨みを抱くわけだし、聖書が愛について語っていることって共感できないよね、って思うかもしれません。それに愛することがそんなに大切なのか、わからないって言う人もいるでしょうね。

  • お金を儲けることの方が大事、
  • 偉くなることの方がもっと大切、
  • 歴史に名を残すことこそ重要。

 人によって価値観が違って当たり前と思われるかもしれません。


 実は、私たちは、愛という言葉をよく使いますが、愛するということが何か、本当は知らないのかもしれません。なぜなら、聖書が愛について語っていることに共感できないからです。私たちは、愛って、感情的なもの、ロマンチックなもの、あつく燃えたり、さめたりするものと考えやすいです。


 愛と愛情は違います。愛情なら、それは感情なので、燃えたり冷めたり消えたりすることがあります。しかし愛は、愛情とは違うのですね。もし愛を愛情と考えるなら、愛は、忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらないというのは変ですよね。


 忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、失礼なことをしない、自分の利益を求めない。これらのものを愛というなら、愛は、意志に基づくものと言った方がふさわしいです。意志つまり決心です。

  • 私は忍耐強く人に接しよう、
  • 自分より優れたものを持っている人に対してねたむのをやめよう、
  • 自分の利益ばかり求めることはすまい。

 これは決心です。愛とは、感情ではなく、他の人に対する態度、関わり方を指しているように思えます。聖書は、愛するとは、他の人に対する関わり方を指す言葉として使っています。聖書は愛についてこう教えています。人からして欲しいと思うことを人にする、それが愛だと。


 実は、私たちはもともと愛が何なのか、よく知らない者でした。しかし、愛を知る者となるのです。どのようにして? 聖書にこう書かれています。

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)。

「御父(神)がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(ヨハネ一3:1)。

 イエス・キリストが死んだことによって、神は私たちを愛してくださったことがわかるとあります。実は、このことがわかれば人はクリスチャンになるわけです。だからチョコチョコッと説明してわかってもらえればいいのですが、普通、それは無理です。でも、全能の神様の働きに期待して、チョコチョコっと説明します。


 聖書という書物は、実は、人間の心を映し出す鏡のようなものです。

  • 私たちが聖書を読み、その内容を受け入れていくなら、
  • 私たちは自分が神の前に罪を犯して生きている者、
  • つまり罪人であることがわかります。


 神の前に罪人というのは、犯罪者ということではありません。罪を判定する基準は法律ではなく、神ご自身なのです。神の心に反することが罪であり、神の心に背いて生きている人が罪人です。私たちは神の心を知らず、神に背き、罪を犯す罪人なのです。自分が罪人であるとわかる時、罪を犯す自分は、神の裁きを受け、罪人としての宣告を受け、罪の報いを受けても当たり前の者であることを思い知らされます。裁きに恐れにおののきます。


 そしてイエス・キリストが十字架で死に、私たちの罪の償いをしてくださったという聖書のメッセージに救いを感じるのです。そして自分の罪の赦しを求め、イエス・キリストが自分の罪の償いをしてくださったと信じ、これからは、神を信じて、神のみ心を求めて生きていくと告白する時、私たちは罪赦され、神の子とされると聖書は告げるのです。神の裁きを恐れることなく、神の子として生きることができるというのです。罪を犯して生きていて、罪人に他ならない私たちを神の子として受け入れてくださるのが神の愛と聖書は述べます。


 神に愛されていることを知るとは、実は、自分が大切な存在、価値ある存在だと知ることなんです。自分を大切にすることと自己中心的に生きることは同じではありません。自己中心というのは自分のことしか考えないことをいうのであって、自分を大切にすることとは違います。


 人は誰しも、欠点があります。弱さもあり無力さもあります。だから失敗し、恥をかいたりします。そして失敗を恐れて縮こまることもあります。そんな自分を人は、なかなか喜べません。

「あなたは自分が好きですか」

と聞くと

「嫌いだ」

と答える人も少なくないのです。


 そこで後先を考えず、成り行きに身を任せ、自分を粗末にすることがあります。こんな自分はどうなったってかまわない、と自暴自棄になる人もいます。自分は価値があり、大切な存在だ、とは到底思えないのです。しかし神に愛されていることを知る時、自分を大切にするようになります。


 そしてイエス・キリストによって救いを得た人は、こんな考えを持つことができるのです。

  • 自分の無力さ、弱さを恥としないで生きることができると考えるのです。多くの人は、自分の無力さ、限界、弱さを認めようとせず、自分が頑張れば何とかなると考え、頑張ります。時にそれが自分を行き詰まらせます。でもクリスチャンは、神に心を向け、弱さ、無力さ、限界を持つ自分を神が生かしてくださると信じるようになるのです。神の愛を信じるのです。
  • 神が自分を生かしてくれると考え、神に心を向け、自分が弱くても無力でも、神に助けを求めて生きることができると信じるのです。ここにはあきらめや絶望はありません。自分は弱いから、無力だから仕方がないという考えはありません。弱くても、無力でも、私は神によって生きるし、神に生かされて生きることができると信じる、そう考えるんです。
  • さらには、神が受け入れてくださるので、ありのままの自分を受け入れることができる、つまり自分を嫌いだなどと言わず、自分を愛することができると考えます。欠点があるから自分を嫌うのではなく、欠点があるけど自分を受け入れ愛していけると考えるのです。それって本当? と思われるかもしれませんが、クリスチャンはそう考えるのです。
  • さらには、自分と他人を比較することもしません。自分は自分、他人は他人。ありのままの自分を受け入れてくれる神がおられるので、自分を他人と比較しないのです。比較してもその結果に左右されません。とかく人は、他人と自分を比較し、自分の優れている面を確認しては、自分はこれでよいと考え、自分の劣った面に気づけば劣等感に陥り、自分を受け入れること、自分を愛することはできなくなります。
  • さらには、自分の人生の不幸、不運、うまくいっていないことを人のせいにすることなく、神を信じ、周囲に振り回されない生き方を身につけることができると考えるのです。そして自分を価値ある存在として、大切にしていくのです。


 自分を大切にするとは、弱さや無力さ、欠点がある自分を受け入れること、その自分をありのままによしとすることです。なぜなら、神がその自分を価値あるものとしてくださっているからです。そして自分を大切にできる人は、実は他の人を大切にできる人です。他の人もまた弱さ、無力さを持っています。自分の弱さを受け入れる人は人の弱さを受け入れることができるのです。


 弱さ、無力さを持つ自分を受け入れ、愛することのできる人は、弱さ、無力さを持つ他の人を愛することができ、他の人を大切にすることができるのです。他の人を大切にできない人は、自分を大切にしているのではなく、自己中心的なだけです。


 こうしてクリスチャンは、自分も人もそして神をも大切にして生きることができるようになります。そして神に愛されていることが素晴らしく、人を愛することの素晴らしさに気づいていくのです。


 最初に、クリスチャンは、こんな感覚を持つ人だと申し上げました。「私は神に遣わされた者だと感じるようになった。日々の生活が輝きに満ち、愛と奉仕に生きる喜びを感じている」。クリスチャンは、自分が神に遣わされた存在であると感じています。言い換えると、神から使命を与えられていると感じています。自分には、神から生きる目的が与えられていると信じます。


 そしてクリスチャンは、この世の人々のただ中で生きています。この世の人々と同じ状況の中で、生きています。学校に行き、社会に出て働き、家庭を営みます。社会人として生き、家庭人として生きています。


 クリスチャンは、そうでない他の人たちと価値観が違うので、時に、他の人たちとは異なった選択をすることがあります。異なった選択をすることによって、自分がクリスチャンであることを言い表すわけですね。つまりクリスチャンとして生きるわけです。そこには他の人々と生き方が異なるゆえに戦いが生じることもあります。


 クリスチャンは、「愛する」ということを大切にします。「愛する」ことは、神様の命令です。神を信じ、神に従うことを大切にするので、

  • 愛することを大切なことと考えます。
  • 実践すべきことと考えます。

 クリスチャンは他の人たちと同じように、会社で仕事をし、家庭で家族と交わり、学校で学びをしますが、その中で、愛することを大切にします。そしてクリスチャンは、そこに生きる目的を見いだし、喜びと生きがいを得て、感謝をもって生きるのです。
クリスチャンは、普段生きている場所で、愛することを大切に考え、実践するのです。


 またクリスチャンは、この世の人がしないことを行います。神を礼拝し、福音を伝える教会の働きに参加し、この世の人々の中にあって、キリストを伝えていく働きをします。神に遣わされたと自覚しての行動です。教会の働きに参加することを奉仕と呼びますが、クリスチャンは愛と奉仕に生きることに喜びを感じるのです。日々の生活に輝きを感じるんです。信仰をもって生きる、何と素晴らしいことでしょうか。