洗礼を受けクリスチャンとなり、信仰者として歩みだそうとする時、実は迷いの森に入ることになるのではないでしょうか。つまりクリスチャンとしてどう生きていったらよいのかわからないからです。聖書は厚い本です。これを手引にしてどう生きていったらよいのでしょうか。礼拝や教会の集会で聖書を学びます。そこで教えられたことを学び、学んだことを実行していけばよいのでしょうか。学んだことが必ずしもこのようにしなさいと指示があるわけでもなく、結局、何をしたらいいのかと思います。
とりあえず、聖書を読み、祈り、礼拝に出席すればよいということになるのでしょうか。聖書を読めば、色々な教えがあるので、それらに従うことに心がける、そのような信仰生活を送るのかもしれません。教会の働きに奉仕することは大切です。キリスト者のキリスト者らしさは、その心と行いに現れてきます。奉仕を一生懸命しても自分の心を知るキリスト者は、キリスト者としてどう生きていいのか分からないもどかしさを感じるのではないでしょうか。
私自身も迷いの中にありました。牧師となって説教をするようになっても、クリスチャンとしての自分に自信を持てませんでした。教会で色んな問題に直面し、自分の愛の薄さに絶望することもありました。そして自分に自信を持てず、キリスト者であることを誇りに思うこともできず、苦しかったことを思います。牧師として説教すればするほど、自分が語ったことを生きていかなくてはならず、苦しく感じたこともあります。
そんな私はあるとき信仰書を読んでいて、キリスト者のアイデンティティーということを知りました。しかしキリスト者のアイデンティティーの持つ意義を理解するには何年かかかったと思います。キリスト者は神の子です。キリスト者は新しく生まれた者です。キリスト者の心には聖霊が住んでおられます。キリスト者のアイデンティティーは聖書に書いてあるし、理解できます。しかしなぜアイデンティティーを考えなければいけないのか、すぐには理解できませんでした。
そしてようやく分かったことは、アイデンティティーを理解し信じるところから、キリスト者の真の歩みが始まるということです。迷いの森を抜け出て歩みを始めることができます。キリスト者としての成長が始まります。洗礼を受ける人にキリスト者のアイデンティティーを教えても理解はしてもらえないと思います。キリスト者が迷いの森の中に入り、そこで色々経験する中で、アイデンティティーの持つ意義を理解できるようになります。
つまり迷いの森の中にいるキリスト者は自分の力で、自分の努力で信仰者として生きようとしています。しかし自分の力で信仰者として生きようとすると必ず、失敗に終わります。挫折に終わります。なぜなら自分の力でキリスト者として生きることは無理だからです。そもそも人を愛することすらできないのです。自分を愛することも、隣人を愛することもできないのです。それで自分のことを罪深い人間と考えているキリスト者は少なくないのです。苦しみ悩んだからこそ、アイデンティティを知るときに喜びを感じ、キリスト者としての再出発に踏み出すことができます。
キリスト者の歩みは、アイデンティティーを受け入れ、このアイデンティティーに立つことから始まります。そして神の恵み、神の力に頼って歩みます。神の力、それは聖霊の力と言い換えることができます。
このブログでは、キリスト者のアイデンティティーについて紹介し、このアイデンティティーに立って生きることについて書いてきました。さらにはキリスト者は罪から解放されていることも書きました。このことを書いている途中で、目の手術のために入院し、ブログはしばらく中断しました。退院してからは入院中のことを書きました。初めての入院、初めての手術は試練でした。そして恵みの時でした。入院中のことは書き終わったので、新たな思いでキリスト者の歩みについて再開して書いていこうと思います。