試練の最終段階です。
4.聖書の言葉が自分のものとなる
聖書には私たちを励まし、慰め、助けてくれる言葉がいくつもあります。私たちは聖書を読み、そういう言葉を蓄えているのではないでしょうか。1~3の段階のところで引用した聖句は、すべて私の心に蓄えられていた言葉です。牧師として働いていたときには、説教でも引用した言葉です。
そのように蓄えていた言葉が試練の中で自分のものになっていきます。体験に裏打ちされて忘れられない言葉、本当に自分を支えてくれる言葉となっていきます。今回、自分のものになった言葉はロマ書の言葉でした。
「あなたがたは恵みの下にある」(ローマ6:14)。
自分は神の恵みのもとにおかれているので、何が起きようと自分は大丈夫、神の恵みの下にあると「考える」ことにしました。たとい悪い事態が生じたとしても、それでもなお私は神の恵みの下にあると「考える」のです。本来なら「神の恵みの下にある」と「信じる」ことにしたと言うべきかもしれません。しかし「信じる」という言葉はあいまいな面があります。ですから恵みの下にあると「考える」ことにしたのです。「考える」ことにしたというのが実際に即しています。これにより心に平安が訪れました。
私の好きな讃美歌520番の歌詞を紹介します。
しずけき河のきしべを
すぎゆくときにも
うきなやみの荒海を
わたりゆくおりにも(おりかえし)
こころ安し 神によりて安し
英語だとこうなります。
When peace, like a river, attendeth my way,
when sorrows like sea billows roll;
whatever my lot, thou hast taught me to say,
It is well, it is well with my soul.川のように平和がわたしの道に伴う時
悲しみが海の波のように巻き起こるとき、
私の運命がどうなろうとも
あなたは私に教える
「だいじょうぶ、私の魂はだいじょうぶ」と言うように。
「私の運命がどうなろうとも」。徹底した神信頼があります。そして「私は大丈夫」というように神様は教えたというのですね。この境地を今回味わいました。そして今回の経験は、いつか訪れるであろう日に役に立つと思っています。そのときに私が支えとする言葉はこれです。
フィリピ 1:21~23
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。
この箇所の次の言葉を支えの言葉にしたいと思っています。
- 「わたしにとっては生きることはキリストであり、死ぬことは益である」
- 「わたしの願いは、この世を去ってキリストとともにいることである」。
最後に、試練は私たちの信仰を鍛えてくれます。
ペトロ一 1:6~7
そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。