2021-01-01から1年間の記事一覧
栄光を見るってどういうことでしょうか。栄光を見ると言っても、肉眼で見るわけではなく、見るなら心の目です。
ヨハネ福音書に私たちは「恵みの上にさらに恵みを受けた」とあります。私はどんな風に恵みを受けたのか。
天地の造り主なる神は何を考えて世界を創造されたのでしょうか。思いめぐらしました。第二回目。
天地の造り主なる神は何を考えて世界を創造されたのでしょうか。思いめぐらしました。
ヨハネ福音書には神から遣わされたヨハネは光について証しするために来た、と書かれています。私もキリストの証し人として語ってみたいと思います。
パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」と書いています。キリストはいつ、「固執しようとは思わ」なかったのでしょうか。
神は人となられたと言われても戸惑います。聖書の言葉をもとに黙想してみました。
だれが全人類の罪の償いをすることができるでしょうか。現実の人間は、自分自身罪を犯します。全人類の罪の償いをできる人は、全く罪のない人だけです。
旧約聖書は人間の罪を明らかにします。そして救い主を待望します。
今度の日曜日は教会でクリスマス礼拝が行われます。神さまは救い主をこの世に送り、私たちのために救いの御業を行われました。そもそも神さまは、なぜ救い主をこの世に送られたのでしょうか。
信仰生活でやっかいなのが「実感」です。実感がないとなかなか信じられないと問題があります。信じたいけど信じられない、信じられないけど信じたい、と悩みます。
言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。罪を犯すクリスチャンは、神の子といってよい?
旧約聖書には、神の掟として人が罪を犯した場合、いけにえを献げて神に赦しを求めることが命じられています。これは何を意味しているのでしょうか。
生きるのに疲れたという思い、自分は何のために生きているのかという思いで目覚めるのは一種の老人病と考えてよいのではないかと考えました。
人は自分の犯した罪に対して自分で償いをすべきだし、身代わりなんておかしいと語る人もいます。でも聖書はなぜ、イエス・キリストが身代わりになったと語るのでしょうか。
イエス・キリストは十字架の上で、私たちの代わりに神の怒り、神からの罰を受けられたと聖書は語ります。身代わりの思想は適切なのでしょうか。
神の愛に深さがあるならどれほど深いのでしょうか。その深さは測ることができないようです。
イエス・キリストは神であるのに人となりました。なぜ人となられたのでしょうか。その答えは、人間を愛しておられたからです。
キリストは神であるのに人となりました。これはどういうことでしょうか。たとえで考えています。
イエス・キリストは神であるのに人となり、人を救うために十字架で死なれました。神が人となり、人のために死ぬ、こういうことでしょうか
今朝は物憂い気持ちで目が覚めました。年をとったからだと思います。このような朝、どう一日を始めたらよいのか。
救い主イエスの誕生。これは1500年も前のアブラハムに対する約束の実現。1500年を経て実現した神の約束。
人は他者との関わりの中で生きています。キリスト教は他者との関わりを大切にするように教えます。人はだれでも人格を持つものとして尊重されるべきです。
アダムとエバに現れたプライドという罪。プライドこそ、根本的な罪。
創世記によれば、神は人間を造り、善悪の知識の木の実は食べてはいけない、食べると必ず死んでしまうと警告されました。なぜ?
「まだ信じないのか」とイエス様は言われました。信じきれない私たちはどう行動したら良いのでしょうか。
最近インターネットのユーチューブですてきな賛美歌に出会いました。 それは "It’s not an easy road" (簡単な道ではない)です。
「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています」とパウロは書きます。どういうこと?
「いつも喜んでいなさい」とあります。これは無理です。信仰から来る喜びが心の底にあります。
神は御自分に似せて人間を造られました。言い換えると人間は神に愛される存在です。