ヨハネ 1:12
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
私はこのヨハネの言をもとに、自分が神の子であると確信します。神の子とされる根拠は、自分の信仰者としての行いではなく、この聖書の言葉です。私は罪を犯しても神の子とされていることには変わりはないと信じています。私が神の子とされるために、イエス・キリストはこの世にお生まれになりました。クリスマスの喜びは、神の子とされた喜びです。次の聖句は、私が神の子であることを後押ししてくれます。
ガラテヤ 3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
信仰生活でやっかいなのが「実感」です。実感がないとなかなか信じられないという問題があります。信じたいけど信じられない、信じられないけど信じたい、と悩みます。迷っていても解決はありません。
- 実感できたら信じる。
- 実感できないがまず信じる。
のどちらかを私たちは選びます。そこで参考になるのが次の聖書の言葉です。
ヘブル 11:1
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
これは、実感できないがまず信じることを教えています。信じるとは確信して歩むことです。神の子であることを前提として生きるということです。自分が神の子であると考えて生きるということです。そうすると神の子とされているという実感がついてきます。実感は信仰の後ろについてきます。実感は信仰についてくる、これは信仰の原理だと私は思っています。この原理に立って私は信仰者として歩んできました。
神の国は本当にあるのか。「私たちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)。私はこれを信じ、死を越える希望を抱きます。そして平安を与えられます。平安を与えられる、それは神の国の存在のしるしと私は考えます。神の国を実感したら信じるのであれば、死ぬまで信じられないと思います。
私は神の子とされたので、神の子として歩みます。神さまに従う努力をします。罪は犯してもいいんです。失敗してもまた前進すればいいのです。大事なのは、神の子と信じて歩み続けることです。私はそう考えて生きてきました。